メモ帳36

連続テロ事件とその後


2001.9.29.アップロード

9月4日の記述はメモ帳(37)に移し、この(36)は、テロ関係のものにまとめることにしました(02.1.27.)。
2001.9.11.

今朝、歯医者の検診が終わったあと、他の患者さんが「ワールド・トレードセンター のこと知ってる? 飛行機が2つ激突したんだって」と聞き、正直最初はウソだろうと思った。ところが車のラジオを聴くと、臨時ニュースが、かなりマジメにこのニュースを伝えている。一体全体どういう規模のものなのだろうと、不安になった。

家に帰ってテレビを見てびっくり。あの高層ビルの一つからもくもくと煙が出てい るではないか。大変なことになったな、と思った。高層ビルの火災というのは、以前日本にもあったので、これから消防はどう出るのだろう、と冷や冷やしていた。

ところがちょっとしてからテレビを見るとさっきまでビルがあったはずの場所の周りが一面煙りでいっぱい。「まさか」と思うと、例のビル崩壊の場面のビデオ。それ以来、今日一日唖然・呆然。こんなことが起こっていいのか、本当に起こったのか、心の中に納めることができなかった。

しゃれになっていない。

しかし一方で、CBSのダン・ラザーなどは、「テロリストによる戦争だ」という過激な言葉を使って、私の恐怖はより強いものとなった(夜はそういう言葉を使ってないようだが)。CNNは今見られないのだが(ケーブル会社の不備--今日は無理だろうな)、まだどういう風に反応するのか、誰も分からないという印象だ。アフガニスタンの原理主義者だとか、政府もサポートしてるんじゃないかという憶測ネタも出回っていた(夜現在は「分からない」としているが)。

また、ラザーの場合、ちょっと感情をおもむろに出したレポートをしていたのも気になった(冷静さは保とうとしていたけれど)。その中で、今回のことを真珠湾になぞらえて「Day of Infamy」と言い切ったのは、日本人としてはやはりショック。あの日はアメリカ人が一致団結して勝利に向かっていったではないか、と励ます言葉をかけていたようだが、そこにマイノリティーとして住む私にとっては、あまり心地のよい言葉ではなかった。

NBCなども、ゲストが元軍人とか政府関係者で保守的な人ばかりだったのか、もう戦争だ、タリバンだ、と叫んでいて、とてもいやな気分になった。

地元のローカルニュースによると、日本人の観光客も、ここで足留めを食らっているそうだ。ウェスト・パームビーチへの乗り継ぎとのこと。

ニューヨークから遠く離れている私の方の生活に、今日のところ直接の影響はなかったが、明日からの生活がどうなるのか、不安ではある。ガソリンの値段の高騰が予想されているし。

あと、空港の安全チェックも厳しくなるのではないかと思う。

今日はまさに、Day of Terrorだった。


2001.9.12.

今回の事件、その精神的ショックは大きかった。しばらくこれは後を引きそうだ。私の友人の日本人は「戦争になるんじゃないか」と言っていたが、それだけはやめてほしい。しかるべき国際機関が判断を下すべきではないだろうか。もちろん、そこにアメリカの意見が強く通るだろうという弊害を差し引いてだが。

マスコミは、もう戦争を始める(始めたい)かのような勢い。政府の方が慎重に見えるので、恐しい。軍はどのように対応するのか、記者会見でも盛んに問われているが、政府側は明確にはしていない。もちろんブッシュのことだから、強い行動に出るのは充分考えられるが。

戦争だけはやめてもらいたい。死ぬのは関係のない人たちばかりなのだから。貿易センターの例のように。

テレビには、Terrorist Hits America, Atacks on Americaという言葉が踊る。


2001.9.13.

13日に入った深夜、FOXチャンネルを見ていたら、ちょっとした二者間による議論。もう犯人は分かった、他の国が何と言おうと攻撃しよう、というアナウンサー。相手は、国際関係もあるんだから慎重に調査を含めて、世界の確証をとってからするべきではないか、自分たちの宿題をやろうと、当たり前のことを言っていたのだが、このアナウンサーは、タリバーンのリーダーは「アラーに感謝しているじゃないか」とか、もう感情いっぱいで発言をさえぎっている。もう分かってる、調査なんか必要ないとまくしたてる。

政府も、ブッシュの「戦争」宣言のあと、かなり過激な発言をしている。政治家とマスコミが一体となって、軍事報復への道をまっしぐらという印象を持ってしまう。

町は引き続きぼう然とした感じで、教会に来ていた人も、驚きの方が大きかったと思う。怒りの表情はまだ強くないようだ。ただ、報道に引っ張られていく恐れはある。その内容に、感情に訴えるものがあるからだとは思うのだが。

もちろん日本の報道とこちらの報道では「温度」が違うし、こことニュヨーク・ワシントンとの温度も違う。日本の方は飛行機の激突に対する見方が、こちらに比べてかなり冷めているようだ。ハリウッド映画を見ているみたいとか。もちろんあれがあまりにも非現実過ぎるという点では、こちらにもそれに類似した発言はある。しかし結局は、それでも受け入れなければならない、立ち向かわなければならないという厳しい現実への実感が、こちら側にはある。

昼、こちらアメリカのテレビを見ていると、悲しみがひしひしと感じられているのは分かるのだが、愛国主義の異様な高揚と、怒りをぶつけたいという感情いっぱいの報道に、私は正直、うんざりしている。

事件の当日、人々は驚き、悲しんでいたように感じるのだが、報道の方は翌日からかなり怒りを煽っていたように思う。もちろんブッシュ大統領の発言が時間を追うごとにどんどん過激になっていくことも、ひどく気になったのだが、感情に歯止めが聞かない民衆の方も、大統領やマスコミによって、緊張感を一気に増しているように感じる。

今日は「追悼の日」ということになっていたが、昨日から、国旗を掲揚することが促され、今日はダウンタウンにたくさんの星条旗が見えていた。

ここで感じるのは、多様な民族や宗教をみとめながらも、それはすべてアメリカの下に団結するというナショナリズムだ。そしてアメリカが「好き」なのか「嫌い」なのかで、その国に属するか属さないかが決まってしまうような印象を与えているということなのである。

おそらくこれは、2日前からの、パレスチナの映像ではっきりしたことだろう。彼らがなぜゆえにアメリカが嫌いなのか、どうしてテロリズムを起こすまでになっているのかという考察が全くなく、単に自分たちを、あるいは「自由」を嫌っている狂信者たちなのだというアイディアを植え付けているように見えてしまうのだ。

アメリカが自由を標榜する国であることは、世界中のほとんどの人が知っているだろう。本質はそういうことではないと思うのだがが、その部分は、アメリカ人にはほとんど伝えられていないし、また考えるような隙間も与えられていないようにも思えるのだ。私は非常に恐ろしい。

ここ数日起きているアラブ系やイスラム教徒に対するヘイト・クライムも、その延長線上にあるような気がしてならない。

もちろん、トラウマの再生産によるヒステリアが続くことは容易に想像できるのだが、その感情によって、すべてが一気に流されているように見えてならない。

アフガニスタンに対する戦争が起きる。みんなそう思っているんではないだろうか。昨日地元の米軍事務所に、従軍の申し込みが多く来ているともいう。分かりやす過ぎる。


2001.9.14.

今日、パウエル長官のインタビューを少し見ていた。役人の中には、こういった慎重な対応をする人も少なくなく、実はほっとしているというのも事実。しかし、昨晩のローカルニュースでは、ジョージア州の政治家が、「Collateral Damage? Be that way!!」と発言をしたビデオが流れ、さすがにアナウンサーは、いままでで一番恐ろしい発言として紹介していた。

世論調査では、軍事報復に9割が支持とのことだが、おそらくこれは、時期的な問題もあるように思う。私の友人によると、「みんな殺してやる」といった過激なことを言うアメリカ人も少なくないようだが。

一方、英語のニュースグループなどの議論では、民間人に被害が出る戦争は好ましくないという意見もでている。イスラム教徒については、昨日クリントンがニューヨークにマンハッタンにやってきた時、アメリカは多文化国家なのだから、いたずらにイスラム教徒を敵視しないようにと促していたのが印象的だった。

そういえばCBSだったかの朝の番組で、日本についての報道があった。日本の首相は、おそらくアメリカに最もシンパシーを感じてくれる首相の一人だろうという紹介があり、小泉首相がアメリカに全面的に強力するという談話がつたえられた。で、ここでアナウンサーは「しかしそれは、軍隊を派遣するということではなく、アメリカにオーケーすることだ」というようなことをいそいで付け加えていたのが、とても印象的だった。

真珠湾の記憶(トラウマ)は強いようで、昨日も消防士が瓦礫に星条旗を立てた場面があり、これが硫黄島の写真とオーバーラップされていた。いま国旗の売れ行きもうなぎのぼりだ。

私個人としては、テロの撲滅に、これまでのような戦争がどれだけ効果的なのか、大いに疑問だし、そもそも民間人の巻き添えは避けられない軍事報復はやめてもらいたいと考えている。


2001.09.15.

15日に入った深夜のヘッドライン、アフガニスタンが、アメリカを擁護するあらゆる国を威嚇すると、こちらのニュースが伝えている。なんかタイミングが良すぎるのではないかと、勘ぐってしまう。ソースはどこなのだろう。

テロから3日目のニュースは、アメリカが悲劇に打ち勝って、まさに報復に備えるといった、ハリウッド的メロドラマのような雰囲気になっていた。私も朝の国民的な礼拝のテレビ中継には感動したのだが、それが、すぐ軍事報復となる早さには、ちょっと恐ろしいものを感じまう。これでいいんだろうか?

しかし、私のような、反軍事報復の発言も、おそらくこの雰囲気でははかなく消えるような気がする。それだけメディアの煽りもすごいし、感情の高ぶりもすごい。パキスタンがまだ米軍の存在を認めていないからいいものの、このままアメリカがゴリ押しすれば、間違いなく戦争になるのではないかと思う。

まったくいやな時期にアメリカにいてしまったものだ。

一方、今日昼の公共放送のラジオでは、原理主義者でないイスラム教徒も多くいるし、彼らは平和を愛する人々であり、『コーラン』の教えを相当拡大解釈しないと、特攻は不可能だと専門家が説明していた。アラブ系アメリカ人に被害が及んでいることにたいする警鐘なのだろう。

しかしラジオの聴衆の中の怒りは大変なもので、アラブ系アメリカ人にも、今回のテロ活動を資金的にサポートする者がいるのではないかと、露骨に憎悪の念を表している人もいた。

アナウンサーは必死に、ブッシュは具体的な軍事行動を明らかにしていないと擁護していたが、軍事行動にでるのは必至ではないだろうか。また、今回のことでテロ防止の名の下にプライバシー侵害が政府によってなされるのではないか、市民が知るべき情報が「国家の安全のため」にすべて秘密にされてしまうのではないか、防衛費が莫大に拡大されるのではないかという不審の声もでている。あるいは左翼活動家などが「反米」として取り締まられることの危惧も。

しかし、なぜアラブ諸国はアメリカに批判的であるのか、自分たちにはどういう問題があるかという議論には、絶対に及ばない。問題の根源を、すべて狂信的な原理主義者たちに収斂しているようだ。アフガニスタン現地のリポートにしても、アメリカのアナウンサーが政府筋の情報を伝えるだけ。現地にいって声を聞く映像など、まだ一つも見ていない。

関連サイト:http://www.kamiura.com/


2001.9.16.

昨日の公共放送は、FoxやNBCよりは冷静だったと思う。イスラム教徒への誤解を解くように、専門家が説明していたり、これを期に、政府が個人情報を必要以上に管理するのではないかとか、予算が全部軍事に注ぎ込まれるのではないかとか、政府批判がなくなるのではないかという危惧も聞かれた。「戦争への太鼓を鳴らしている」と、そのリスナーは言っていた。

テレビにしても、ピーター・ジェニングス(ABC)やマクニール・レーラー(PBS)は、私も見た感じ、一番ゆったりとしていたと思う。

その他の局にしても、ニュースのメインの部分は、確かに落ち着いているのだが、24時間体制の時は、様々な憶測が飛び交ったり、感情任せの発言がキャスターから飛び出したりもしたと思う。

また金曜日の夜は3日間の映像がまとめられ、やすっぽいBGMとスローモーションの映像によるドキュメンタリーが作られたりしており、おそらくアメリカ人の傷付いた心に配慮したものだと思うのだが、私はこういうのを見ると、かえって冷めてしまう。

今朝のニューヨーク・タイムズ/CBSの世論調査では85%が、今回の攻撃には軍事をもってこたえる必要があると答えていて、そのうちの75%が、それによって無実の人が殺されても構わないとしている。また(軍事報復に賛成の人たちの意見だが)、テロを支援した国と戦争になっても構わないというのは98パーセント(いいえは0%、決めていないが2%)、何千人の市民がそれによっても死んでもかまわないというのは89パーセントにもなる。

また、星条旗をあしらった全面広告がメインのセクションに、企業広告の大部分は無地に哀悼のメッセージか、愛国主義を打ち出したものになっている。自由の女神と星条旗とか、救援活動を続ける消防士たちの写真とか。

政治家の発言もそうだが、こういったメディアの感情に訴える力というのは、私にとっては恐ろしいくらいに強い。町にも星条旗がひるがえり、車に付けて走る人もいる。

今朝の教会での礼拝で、ニューヨーク出身の牧師さんが怒りを抑え切れないといった様子だったが、それでも創世記にあったように、完全な世界を作った神に逆らった人間がこのような社会を作ったのだ。このような苦しみは次の喜びのためにつながる。怒りは克服しなければならない、そうでないと、今回の出来事を起こした人間たちと同じになってしまうと説教をしていた。私には、心にぐっとくるものがあった。


2001.9.17.

今日はちょっと落ち着いてきただろうか。ユダヤ教の聖職者が出てきて、自分たちの強さを示すための、気持ちを良くするためだけの報復はいけない。罰や司法によるべきだ。普通の生活をすることによって、テロリストに答えていかなければならない、と言っていた。これには私も賛成。テロに屈しないには、普通に「力強く」生きていくことが、「暴力では何ごとも解決しない」というアンチテーゼであり、それが有効な手段だと思うからだ。

一緒に映っていたキリスト教関係のカウンセラーも、タリバンはイスラム教を代表するものではないし、多くのアラブ系アメリカ人もこの国にいる価値がある素晴らしい人たちだと主張。

安易に軍事に走ることなく、民族を超えた平和を、アメリカの多くの人たちが希求することを、こころから願っている。


2001.9.19..

こちらの人たちは、まだショックから立ち直れず、癒しや慰めが必要な段階だ。何かにすがりたい気持ちがあるのだろう。おそらくそれが何となく星条旗の掲揚になったと思うのだが、メディアはそれをうまく煽って、国を上げての軍事報復に仕立て上げようとしているかのようだ。アメリカ国内でも反戦運動があるとのこと。それはまるで伝えられていない。

CNNはAmerica's New Warなどとしているが、何を殺気立っているのか、地元のレストランにはラディン氏のポスターを標的にしたダーツまで現れる始末。ヘイトクライムがそのまま拡大したような戦争は絶対にしてはいけないと思う。 昨日のブッショなどは、用心しているのか、その「戦争」の具体的内容は、一切明らかにしていないが、すでに軍隊を動かしているあたり、また強硬策に出ているのだろうか、と思わずにはいられない。

ニュースグループの議論の方は、さすがに事情を良く知っている、アメリカ内外の人も参加していて、感情的なアメリカ人に冷静に対応しているところもあり、ちょっとほっとしている。

アメリカ人たちの「怒り」は分かるのだが、それをどのように持っていくのかが、今後を決めるのだろう。だから私は「アメリカ、がんばれ」と思っているが、それは「戦争をしろ」とは全く逆のベクトルである。


01.9.25.

日米のインターネット上の議論を見ながら、考えていた。

一つは当事者意識の違い。アメリカと日本では、今回のテロに対する恐怖心と、またそれに感ずる憎悪の程度に違いがある。また、アメリカのメディアに常に接していれば、かなり煽るような感じになっているので、それがアメリカ国民が本当に望むものかどうかは別として、軍事報復をぜひ、というのが前面に出ている印象だ。

(日本のサリン事件の反応を考えれば、アメリカ人の反応も分かると理解を示す日本人もいるようだ。 )

一方、テロリズムに対する攻撃だというのが、どうしてもタテマエに見えてしまうことの原因は、今回のテロリストを期に、突然と「テロリズムに対する戦争だ」という言葉がアメリカによって打ち出されたからではないだろうか。今回の事件以前からも、テロリストの脅威というものは存在していて、その時からもっと表立った報道になっていれば、またアメリカ国民の意識も高まっていたのなら、もうすこし違った見方もされるのではないかということだ。

一方、日本の場合、「軍隊」に対する抵抗は依然強い。「軍事報復も選択肢に入っている」という発想自体が、すでに日本人の頭の中では考えにくい。もちろん国連の軍事報復「許可」の決議はそのまま「戦争をしなければならない」という「命令」ではないが、「戦争だ」「軍隊だ」という報道が続けば、これはどうしたことだ、と思うのは、ある意味当然であり、アメリカにも、恐れを持っている人はいると思う。「大規模な犯罪こそ合法的である」という本多勝一の言葉もあるから(ちょっと細かい言葉使いには自信なし)、アメリカのやっていることが「犯罪」にならないように、注視する必要はあるだろう。

(個人的には、私も軍事にはアレルギーがあり、国連がどう言おうと、戦争はいかんと思ってしまうのだが。それはやはり「憎悪の再生産」という言葉に要約されると思う。)

日本人は平和ボケだと主張する人も少なくないようだが、アメリカ人も、ことテロや戦争については、自分たちとは遠い存在のように考えていたと思う。もちろん米軍が中東に関わっていることは知っていても、それはアメリカ国内で起こっていたのではない、関係ないという認識だったのではないだろうか。中東紛争と自国がどのように関わっているのか、米国自体にどういう問題があるのか、そういった議論にアメリカ人が向いていくのなら、これはこれで、未来に向けての一つのよい材料になると思うのだが。

以下は、英語のニュースグループにあった投稿。憎悪ではなくて、何が必要なのかについて、ヒントを与えてくれるように思う。理想主義だと言われれば、それは否定しない。

From: "MADCOW" Newsgroups: soc.culture.singapore,soc.culture.malaysia,soc.culture.china,soc.culture.japan,soc.culture.indonesia,soc.culture.thai,alt.usa.disaster Subject: Re: Hatred could never subdue Hatred. Date: Sat, 15 Sep 2001 03:51:33 +0800

Thank you Teh Talek! :)

I am trying to explain rationally what went wrong by deliberately avoiding religious (Buddhism) notions. The three poisons of human mind as taught by Buddha himself are enough to explain many earthly wrongs and disasters in this world. However, many could not see clearly about the truth of it.

If Hatred could not subdue Hatred, then what could subdue Hatred? That is naturally the next question many would ask.

I remember watching a film dedicated to the belated Mother Theresa about her struggle in setting up her charity mission in India. She was granted a deserted building next to a Hindu Temple for her "hospital" taking care of hospice and the terminally illed. Those Hindus at the temple were very skeptical about her work and religion. They threw stones and shout insults at Mother Theresa and her nuns everyday. Mother Theresa kept quiet all the while even when her nuns got very frighten about the animosity that the Hindu community was demonstrating.

ONe of the Hindu chief at the temple got injured (or ill?) and was brought into Mother Theresa's hospital for threatments. Mother Theresa treated him just like any other patients, even though she knew this man was one of the most violent demonstrators and instigator in the daily shoutings and stones throwing session. This man was very touched by the compassionate Mother Theresa who didn't show any hatred or even hints of vengence against him. How could a great compassionate one like Mother Theresa had any hatred in her? ;P Of course he was also touched by the work Mother Theresa and her nuns were doing to help those dying. The time came when the anger and hatred of the community and started to riot and the police arrived to close down Mother Theresa's hospital But the hospital was saved by this Hindu man who spoke out in support of what Mother Theresa was doing in helping the dying and illed. Tension was just diffused and Mother Theresa was able to carry on her charity work peacefully from then on.

The lesson learnt here is that only the Great Compassionate Heart could subdue Hatred. Take a good look at Mother Theresa when she visited many other countries with her both hands put together in greetings. The Compassionate engery field transmitted by such image will make any terrorists full of hatred and evil plans lay their arms down. Who would want or have any reasons to hurt the Great Compassionate one? There are simply no hatred or reasons for anyone to do so.

Since you are a buddhist, it is far more important to learn the great compassionate ways than mere meditating and chanting. Only with giving, you could subdue your greed, only being compassionate, you could subdue your hatred and only "bondless", will you get rid of attachment.

MADCOW


2001.9.26.

今日の教会の礼拝の後、イスラム今日のビデオをみんなで見た。水曜日は学生の集まる、どちらかというと社交的な場でもあるのだが、牧師さんがドキュメンタリーを、今週と来週にかけて、見せてくれるようだ。さすがニューヨーク出身。多文化主義に対する感覚が身に付いている。



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