2002年6月8日アップロード
昼、歯医者に行く車の中でラジオを聴いていたら、フランクの交響曲のフィナーレをやっていた。オーケストラの確かな技術も良かったのだが、フランクの循環主題が重なり合って出てくる部分がまるで楽譜を追うように聴けたので、ひどく感心したのだった。これまでのイメージだと、一斉に旋律が鳴っている割には、それらが不思議に溶け合ってしまい、ダイナミクスとしては盛り上がりを見せるものの、どういう旋律が具体的にどこに現れるなどということに注意して聴いてこなかったからだ。
ラジオのアナウンスによると、どうやら演奏はジョン・エリオット・ガーディナー指揮のベルリン・フィルだった。最近はこういった「古楽系」の指揮者がモダン楽器のオーケストラを振ることが増えているように思うが、やはりもともと対位法の多い音楽に慣れているから、それが応用できるのかもしれない。一方、すっきりとしたスタイルの鳴らせ方がブーレース以来確立された伝統となりつつあるのだろうか。
家に帰る時に聞こえてきたのは、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番の、やはり最終楽章。テクニック的にはスマートというよりは、むしろ無骨な感じ。聴かせ所は押さえているように思うが、ちょっと荒っぽいところもある。オン・マイクの録音のためボーイング開始の際の摩擦音が余計に入っていたことは考えられるけれど。
ラジオのアナウンスによると、ヴァイオリンを弾いていたのはユーディ・メニューインだった。彼の演奏もあまり知らないので、もっと聴いてみなければならないな。
夜はユリ・バシュメト(ヴィオラ)の《アルペジオーネ・ソナタ》(シューベルト)を聴く(米RCA Victor 60112-2-RC)。チェロで代用して弾いた演奏はこれまで聴いてきたけれど、ヴィオラで弾いたのは初めてだと思う。楽器から奏でられる線の細い音が独特の情感を生みだし、高音の美しさはチェロでは得難いものであるようにも感じた(確かにそれは、当たり前の平凡な感想ではある)。第1楽章の終結部に、言葉では表現できない味わいがある。
公立図書館で35セントで入手したLP、モーツァルト管楽アンサンブル集(オーボエ五重奏曲 K. 370、ディヴェルティメント第2番変ロ長調 K. Anh. 229、フルート五重奏曲 K. 235 ハンス・カメシュ [オーボエ]、ハンス・レクニチェク[フルート]、レオポルド・ウラッハ [クラリネット]、アントン・カンパー [ヴァイオリン]、エーリヒ・ヴァイス [ヴィオラ]、フランツ・クワルダ [チェロ] ほか 米Westminster WL 50-22)。中は緑のレーベルになっている。盤質はあまりよくなく結構パチパチ音が出るし、ジャケットにもシミがある。以前ウラッハの演奏を日本盤CDで聴いたのよりも、垢(あか)抜けしてクリアな音になっているように思う。低音がちょっと不足気味なのは、私の使っているオーディオ装置のせいか。何の変哲もないモーツァルトといった感じ--それ自体、貴重ではある--もするのだが、日本では「古き良きウイーン」を伝える(?)演奏家たちとして知られているという。録音のせいか、懐かしい感じもする。まだ特徴を述べられるほど聴いていない。 |
ビゼー 交響曲ハ調 《アルルの女》組曲第1・第2番 サー・トマス・ビーチャム指揮フランス国立放送管弦楽団(交響曲)、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(両組曲)英EMI CDC 7 47794 2
フランスのオーケストラが、それほどフランス的でない曲に挑戦し、フランス外のオーケストラがフランス(プロヴァンス?)的なオーケストラ作品に挑戦したという感じのCD。しかし考えてみれば、この交響曲はドイツの古典派の伝統に乗っ取っており、一方第2楽章ではイタリア・オペラの間奏曲風の叙情性も垣間見せる。《アルルの女》は、広く知られたフランスの作曲家としてのビゼーの代表作の一つ。それぞれの性格にあった音が自然に管弦楽から奏でられているというべきなのかもしれない。
レナード・バーンスタインは例の『青少年音楽入門』で、オーケストラというのは音を持ってはいけない、という発言をしていた。それはオーケストラは作品ごとにそれに適した音を創出するべきで、それぞれのオーケストラに固有の音を意固地に保持するようではいけないということであったと思う。このビーチャムの録音は、このバーンスタインの発言を先取りして、そのままうまく現実のものとして提示したものだったのかもしれない。唯一イギリスらしいところを感ずるとしたら、若干ペタっとした奏法の金管楽器群だろうか。
ビーチャムといえばディーリアスということで、私も1枚CDを持っているが、実はこの指揮者の音源との最初の出会いは中学校の音楽室から借りてきたグリーグの《ペール・ギュント》のLP。これがまた変わっていて、石坂浩二と栗原小巻の語りが入った音楽物語仕立てのもの(もちろん東芝からの発売。実家のどこかにカセットに落としたのがあるかも)。すでに第1組曲の方はラジオで知っていたが(確かカラヤン)、ビーチャムという名前は、だからとても印象に残っている。おそらく音楽物語のLPは中学の教材用に買ったのだろうな。
《ペール・ギュント》組曲の一部はさらに遡って、小学校の鑑賞の時間に聴いたと思う。ワークブックにオーゼの死の絵なんかが書いてあって、結構感動したような気がする。でももっとウキウキしたのは《軽騎兵》序曲だった。音楽の物語が数枚のイラストで説明してあって、ここの部分では兵士の死を悼み、この部分では元気に突撃する、みたいな感じのイラストだったと思う。幼心にあのマーチはカッコイイと思っていた。
中学の教材用のレコードといえば、他にもお願いして借りたことがある。その中でも笑った(?)のが、シューベルトの《魔王》をラジオ・ドラマ風に仕立てたもの(もちろん日本語)。「いい子じゃの〜、さあーおいで。歌うたっておねんねさしたげる。きれいなおべべがた〜んとある」とか、すごい訳だったと思う(これ、堀内敬三訳だったかな? 《フィガロの結婚》も「三尺、六尺」とか言って始まるんだよな〜。そんなの聴いて分かる人いるかな?)。
ところがこの《魔王》の日本語訳は2つあって、教科書によってどちらを採用するかが違っていた。私が教科書でならったのは、もっと現代語に近い方だった。レコードは、当時でいうポリドール(グラモフォン)からリリースされていた。もう一つの笑ってしまった(失礼!)方のは、確か日本コロムビアからリリースされていたのだったと思う(コロムビアさん、ごめんなさい。でも、私、これCDになってたら、欲しいです (^_^;;)。
クラシックをまともに勉強すると、リートを日本語でなんて言語道断、などと言われるのかもしれないが、導入としての威力は強烈。特に《魔王》でクラシックにのめり込んだ人(私もそのひとり?)も多いのではないだろうか。このインパクト
が強くて、ドイツ歌曲のイメージがこれで出来上がってしまう恐れさえあるなあ。
その他1: College Music Societyの歓迎メッセージをこの度私が翻訳させていただいた。まとまった量の邦訳というのは、実はこれが初めて。
その他2:『ExMusica』第6号が届く。今回は特に面白い記事が多いようだ。
昨日は主任教授と面会。しばらくロンドンにいたので、その間、副任の先生とやっていた分の一部が返ってくる。タイプミスやいくつかの点について指摘を受ける。大きな問題がなくてほっとしている。最初の一言が「Good!」だったのもうれしかった。そういう訳で、いま午前2時。NBCが1932年に行った作曲コンクールの審査員名簿をタイプする。付録として載せたいからだ。
例1
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ここ数日、論文の方の調子があがってなかったが、ようやく回復の見込み。テクノロジーと音楽の章について、さらにデータを入れる試みをする。レコードのためにライブではできない音作りをした音楽家はたくさんいた訳だけれど、その始めは、もしかするとラジオ局だったのかもしれない。もちろんベルリンなんかは、そういう実験的なことにかけては先進的だったようで、アメリカにもその情報が入ってきている。ラジオの技術的進歩がまだまだだったころもあって(もちろん当時はAM放送)、その制限された音域の中でいかに本物っぽく聴かせるか、というのが一つの流れ。そしてもう一つは、それを機に、これまでコンサートの放送では実現できなかったラジオ向けの音響も開発したいという動きもでる。戦後になると、テープ技術や電子音響合成などが盛んになってくるけれど、このころはまた、既成の楽器をどうするかとか、せいぜいで、電子楽器もオーケストラに含めるといった程度。しかし、構想的なものはすでにできていたようだ。