最近見たもの、聴いたもの(46)


2002年2月8日アップロード


02.2.1.

今日は学会の初日だが、昨日の9時から今朝までずっと論文のアウトライン作りにかかっていたので、眠い。


02.2.3.

さっそく音楽図書館セールにて1枚25セントで購入したLPを楽しむ。

ビゼー 《アルルの女》第1組曲、第2組曲、《美しいパースの娘》から<ボヘミアの踊り> アンドレ・コステラネッツ管弦楽団 米Columbia ML 4409(LP)
 
 
爽やかで元気の良いオーケストラの響き。時にアグレッシブに聞こえるのは彼ならではか。フランス物というと、パリ音楽院管弦楽団だとか、フランス国立管弦楽団とか、オケの響きにどうしても引き付けられがちなのだが、どうしてどうして。コストラネッツだって、うまく聞かせてくれる。また、メジャー・オケに聴かれるような「アメリカ臭さ」がないのも不思議ではある。おそらく管楽器の響きというのが、こういう「国の響き」に大きく影響していると思うのだが、そういったところに、いちいち眉をしかめずとも楽しめる演奏があるものだ。あるいはポピュラー畑では「オーケストラの個性」などというゲイジュツ家気取りなことはできないということだろうか???

私がこの曲に出会ったのは、父の持っていたカセットに収録されていたクリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団という決定盤の一つであり、なかなかそのイメージが払拭できないでいるが(こういう味のある演奏は、他のものが許容できなくなるという問題がある)、なるべくそれに固執しないように聴いてみた。

それにしても、サックスがこれほど堂々とオーケストラに入っていて、なおかつ不自然さがない作品も少ないように思う。

マーラー 交響曲第3番 クリスティーナ・クルッスコス(アルト)、モーリス・アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団、ユタ大学市民合唱団 米Vanguard VCD 10072/3(LP)

オケがあちこちで炸裂するマーラーを想像すると、肩透かしになるかもしれない。録音のせいもあるが、低音にあまり風圧を感じない透明感のある響きだ。しかしマーラー演奏にありがちな、各々のフレーズに全身全霊を傾けるがゆえに作品のマンネリズム的側面が強調される演奏とは違う。全体を見通したとも思える無気味な程の冷静さと造形感に驚く。いや、こういうのは「マーラーらしくない」という人もたくさんいるのかもしれないが。それでも、全く興奮する箇所がないのではなく、第1楽章の最後はおどろくほどオケが鳴るし、力が抜けた第6楽章は、「自然」という言葉が、バーンスタインの演奏よりも浮かびやすい。

それにしても、録音がやたらとオンなのに、残響がついていて妙な感じだ。ライブだと、もっと音がうまくブレンドされるように思う。この録音でかなり損しているんではないだろうか。

なお、アブラヴァネルはギリシア人で、ドイツ・オーストリアで音楽教育を受け、クルト・ヴァイルの弟子でもあったのだそうだ。

モーツァルト 序曲集第1集(コシ・ファン・トゥッテ、ドン・ジョヴァンニ、魔笛、皇帝ティトゥスの慈悲) フリッツ・レーマン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 米Decca DL 4035(10インチ)

ドイツ・グラモフォン録音。モダン・オケではあるが、《魔笛》などは、やたらと迫力のある演奏。このペースでオペラ全曲は無理だよなあ、という感じ。ジャケットの裏は4000番台シリーズのリストで、大半がヨーロッパの名作曲家だが、アーサー・フットやチャールズ・トムリンソン・グリフィスの名前も見られる。これらはおそらくアメリカ録音なのだろうな。


02.2.4.
 
 
例1
前から思っていたのだが、アニメ「ドラエもん」の歌の旋律というのは、子どもの歌にしてはやけにすごい跳躍をすると思う。だって、冒頭の方の音程を選んでとってみると、こんな音になっている(←例1:特に2つめはすごい)。現実としては音程通りきっちり歌うのは大変なので、音程は適当に、アクセントでごまかすのが普通ではないだろうか。おそらく子どもたちなら、音程通りに歌うなんてことよりも、奇想天外なキャラクターの方が大事だと思うから、これくらい型破りな旋律というのは、もしかすると、歌手のように歌えなくてもいいということかもしれない。案外最初から計算済みか?

 


02.2.5.

日本学校音楽教育実践学会編 『日本音楽を学校で教えるということ』(学校音楽教育実践シリーズ)、音楽之友社、2001年
音楽教育学と現場を結ぶ試みは大いに歓迎すべきであり、両方に根ざした研究がなされるというのも、私個人としては当然のことにように思う。だからこのような本を見るのはうれしい限りだし、日本音楽が専門でない私にも得るものがあったといえる。大学の教育学部にいた私にとっては、教育学と現場とが離れていることや、日本音楽の扱いがあまりにも軽いことに疑問を持っていたこともある。

日本音楽指導の指針や実例は、しかしこの本のみが開拓したということでもないのかもしれない。例えば『教育音楽』の後ろの方のページや数々の特集(昨年末もやっていたようだ)、『音楽教育研究』の60、70年代(かなり学者も記述に関わっている)にも、学ぶべきものが多かったことを記憶している。不思議とこういった雑誌記事における研究の積み重ねのようなものが、これまで不足していたのではないかと思ったりもする。教材研究においては、もっと積極的に活用すべきではないか。

さてこの本は、おそらく実際に現場で指導する先生方の教材研究の書として使われていくのかもしれないが、私は反対に、現場に出る前に、大学でこういった実践事例を多く知っておくべきだろうと思う。西洋音楽の演奏法を学びに大学に来た人には、あるいは重荷になるのかもしれないが、将来的には自国文化発信のため、あるいは地域文化振興を理解する手がかりとして、こういうものを学んでおいて損はしないと思う。大学の先生にやってもらいたいようなアイディアも満ち溢れているではないか。

私がまず興味を持ったのは、山本真弓さんがご報告なさっている地車囃子のような、地域密着型のもの。伝統音楽というと、どうしても雅楽とか箏とかにしなければいけないということはない。それにこういうのをやると、学校が社会に開かれたものになるし、地域の文化復興にも役立つだろう。他には、雅楽を代用楽器を使って体験させる事例(杉原孝さん、特に74ページ)など、耳から学ぶことができる興味深いものもある。(02.10.22. 訂正)


02.2.8.
 
 
例1

例2

引き続きアニメソング。今日は《復活のイデオン》。なんとあの、すぎやまこういち作曲。印象に残っているのは、何と言ってもサビの部分。ベースが半音ずつ降りて行くのに合わせて、見事なコードが付けられている箇所。(←例1。ベースラインを先に弾いてみました)。正直いって、よくこんなこと考えるな〜という感じです。また、この曲はイントロがメジャーで、前段がマイナー/モーダル・ハーモニー、そしてサビがメジャーという構成。オーケストレーション的には、イントロがギターでゆったりとしているところに、突然ストリングスを含めたフル・バンドが登場。ディミニッシュのオカズなども使い隙間もない展開を見せます(管楽器の使い方がいいですね)。それでこのサビですからねえ。

ところで、ベースが半音階で降りていくというのには、渡邊健一さんも『音楽の正体』で紹介されている、プリンセス・プリンセスの《ダイヤモンド》という楽曲もあります。これなどは、最初の部分、メロディーがベースラインと逆を行くように進むんですが、その後は平行して下がってくる進み方(←例2)。でもやっぱり最初の「上げ」のフレーズがキーワードとぴったり合わせてあるのは、やはり見事なのでしょうね。
 
 


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