音楽雑記帳(7)



現代人にアピールする日本音楽史の記述を:日本音楽の素人からの希望
(97.10.20.; 98.4.10.改訂)

先学期(1997年春)、「日本の音楽 Music of Japan」という授業を取っていたため、英語と日本語という2つの言葉で書かれた日本音楽関連の書籍や雑誌論文を読む機会が多くありました。そのとき思ったことがいくつかあります。

一つは、アメリカの書籍は日本の文化をそれほど知らなくてもいいように、丁寧な説明がなされている一方、日本語の本は、読者にある程度、伝統文学や文化の知識を要求してくるものが多いとことです。

たとえば、日本の音楽史の本には、あちこちに歴史書の引用がでてきます。それらは原文のままで、翻訳が何もついていない。たとえ高校で古文や漢文を勉強しているといっても、全ての人が現代語訳なして、すらすらそれらを読める訳ではないと思います。翻訳は、それがたとえ必要悪であろうとも、やっぱり必要だと思います。日本音楽の学者さんには、日本文学専攻の方が多いのでしょうが、「日本人だったら、こういうのはそのまま読んでいただきたい」という態度だと、厳しいのではないかと思います。英語で書かれた本は、現代英語に訳されているので、かえって意味が分かってしまったこともありました。

歴史上の人物の名前に振り仮名をつけて欲しいというのもあります。高校の教科書だったら、よほど明確なものでない限りは振り仮名がふってあるでしょう。でも僕が読んだ日本音楽史の本は、読み方の分からないものが、たくさんあり、英語で英語で読んだ本に見知らぬ用語がたくさんあると思ったら、単にその読み方を知らなかっただけだった、ということも多くあったのです。これも、日本人だったら、知ってて当然、ということなのでしょうか。でも、より多くの人が日本音楽の歴史について関心を持ってもらうには、もうちょっとアクセスしやすい方が、ありがたいと思います。

また、日本語で書かれた日本音楽史は、資料調査がきっちりしていて学術的な色彩が濃いのですが、なぜか具体性に欠けるものが多いと思います。例えば、誰が何という三味線音楽の一派を確立して、それがどのような人物によって伝承・派生されたかという情報はあっても、それぞれの流派が音楽的に(あるいは歌詞内容的に?)どう違うのか、いま一つ関連性がはっきりしないのです。歴史書ではあっても、音楽書ではないという印象が拭いきれません。先日民族音楽学の本を読んでいたら、日本の日本音楽の本には、音楽的分析が少ないという指摘がなされていました。

「Music of Japan」のクラスで、「序破急はもともと舞楽から来たものだが、管弦の<越天楽>にもあてはまるのではないか」という質問を受け、答えられませんでした。またその答えを日本語の本に見つけようとしたのですが、全然見当たらないので、さらに困ってしまいました。アメリカ人の先生は、西洋譜に落とされた<越天楽>を分析し、「様式的にあてはまる」と結論づけましたが、たとえばそれが、本当に雅楽の楽人に認められていたのか、序破急理論はどこまで拡大できるのか、そういうことがどこかに書いてあれば、とても助かるのに、と思ったものです(もしも見つけられた方がいらしたら、教えて下さい)。

1998.4.2. 追記:これについては、ご回答が寄せられました。

また、Palmという人の書いたアメリカの日本音楽史の本を読んでいて思ったのは、どうして日本語の「日本音楽史」の本は芸術音楽しか扱わないのでしょうか。民俗芸能はどうしてカットされているのでしょうか? 価値がないから、と切り捨てているのでしょうか? それで包括的な日本音楽史と言えるのでしょうか? キリシタン音楽や、沖縄音楽、アイヌ音楽など、芸術音楽を含むこういったものも、まったく顧みられないように思われます。明治以降の劇的な音楽史の扱いも軽すぎるような気もするし、そもそも洋楽は全部抜けてしまうのでしょうか? 洋楽は西洋音楽史で教えればいいというのなら、責任の一旦は、西洋音楽史で日本の洋楽を教えないところもあるとは思われますが。でも「洋楽」の中にも、日本的要素があるはずですよね。現在われわれが日本の音楽として最も消費している歌謡曲も、ただ西洋のマネだというだけではすまされないような気もするのですが。

以上、素人の勝手な言い分、失礼いたしました。



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