音の日記9
生活のなかの音を探して(長めのエッセイ)

96.9.30.


 音楽作品と言うほどのものでなくても、身の回りには、気になる「音」というものはあるものです。もしかしたらそのような音は、他の人からみたら「ばかばかしい」と言われるようなものなのかもしれませんが、それらがさりげなく私たちの生活に浸透していていることを考えると、見逃すことはできません。そこで、まずは私の好きな音たちを紹介してみようと思います。  

 最初は、大学の学部時代を過ごした新潟の思い出深い場所で、古町という繁華街にある小さなスクランブル交差点の盲人用信号です。  あの「ピッポー」という音のことなのですが、スクランブル交差点なので、あらゆる方向のが一斉に鳴り出すのです。その様子はさながらミニマル音楽のようなので、私は「ミニマル交差点」と名付けていました(その頃大学のゼミで、ミニマル音楽に関する口頭発表をやっていました)。ところで盲人用信号には「ピッポー」(d"とb'の繰り返し?)と「ピュー」(グリッサンドする音)があり、それらは普通、横断歩道が縦に進むか横に進むかによって区別されています。また、場所によっては、一回目の「ピッポー」は手前側の、二回目の「ピッポー」は向こう側のスピーカーから流すという凝った仕掛をした信号機もありました。  

 地方自治体によってはメロディーの出る盲人用信号を使っています。大学院時代を過ごした1990年代初頭の東京にあったのはこのタイプで、<通りゃんせ>が圧倒的に多かったです。<麦畑>とかいう民謡のもありましたが、かなり少数派だったと思います。昔テレビ番組で作曲家の團伊玖磨さんが、なぜ 日本の伝統的なわらべうたの<通りゃんせ>があんな安易に実用的なものとして使われるのかと疑問を呈していました。 彼は「ピッポー」だったら許せるというでしょうか?   

 團さんのその発言のせいかどうかは知りませんが、先日東京を訪れてみたら、「ピッポー」型の盲人用信号機をみつけました。「ああ、これからはメロディー型のは少数派になるのかな?」などと思いました。都市の音もすこしづづ変わりつつあるようです。  

 実は現在住んでいるアメリカの大学の近くにも盲人用信号があるのですが、それがひどいのです。ただのブザー音だからです。「ビー、ビー、ビー、ビー…」と、まるで味もそっけもない。実用的には音 も大きいし問題はないのですが、センスがちょっと気になります。「やっぱりアメリカは野蛮だなぁ」と思われても仕方がないのでは、と思います(事実アメリカの友人の中には、この音がうるさいと思っている人もいました)。また、盲人信号機を知らない人も多いようで、「なぜあんな雑音が鳴っているのだろう」と思っている人もいました。せめて日本に見られるように一言表示があるといいな、と思い ました。  

 盲人用信号の音の問題は、たとえその用途が、目の不自由な方が安全に交差点を渡れるようにするということであっても、それ以外の健常者も音を聞かなければならないということです。従ってこういうタイプの音は、目の不自由な方も健常者の人も共に受け入れられるもの、共有できるものでないといけないのではないかと、日米の盲人用信号を比較して思いました。  

 気になる音の2つ目は、新潟駅のホームの階段で約6秒ごとに鳴る「ポーン、ポーン」という音です。全国のJRの駅を知っている訳ではないのですが、あの音を、他の駅で聞いたことはありませんでした。この「ポーン、ポーン」という音は何なのでしょうという投稿が昔『朝日新聞』(全国版)に載っていて(たしか、おかしな疑問をのせる専門のコラムだったと思います)、「あれは誰かがまりをついているんじゃないか」とかいう回答があったような記憶があります。ずっと後に、その音は目の見えない方に「階段がここから始まるよ」と知らせる音なのだと友人に教わりました。なるほどと思いましたが、そういうった意味が分からないと、その音がなぜ必要なのか、必要ならばいったいどういう用途なのか、説明がないと困惑してしまうものだと思いました(これは、先のアメリカの盲人用信号の例と似ています)。また、それ故に、新潟以外から来た人にとっては、目が見えようと見えまいと、やはり不思議な存在になるのではないでしょうか。なおこのような音はアメリカの大きな都市でも聞いたことがなく、細やかな日本的サービス精神の現われだと、しばし感心したのですが、もう一工夫必要なのでしょう。  

 次は電話の音です。受話器をあげると、日本では単音の持続音が鳴りますが(g'?-ちょっと高め?)、いま私の住むアメリカではf'とa'の和音による持続音になります。呼び出し音(トゥルルル〜、トゥルルル〜という、あの音です)も日本とアメリカは違っていて、持続音も沈黙の部分もアメリカの方が長く、いささかのんびりした感じになります。先日たまたまドイツにファックスを送ることがあり、ドイツの呼びだし音も聞きました。のんびりした感覚はアメリカに似ているのですが、「トゥルルル〜」といったトレモロではなく、「ツー」といった感じの、単音による持続で、呼びだし音も国によっては全く違うものだということが分かりました。  

 電話といえば、使われていない番号に電話を掛けたとき「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というのがありますね。確かあのセリフが出る前にチャイムが鳴ると思います。あの音のアメリカ版がひどいのです。というのも、きわめて単純な電子回路で作った音だからなのです。音階的にはb'-f"-b"(音価は等価)なのですが、このb'とb"がやや低く(?)、若干間の抜けた感じなのです。実用的には問題がないと思いますが、やはりそういった微妙なところに対する配慮がなさすぎるのではないか、と思われてしまいます。こういった音に関しては、日本の方がアメリカよりも進んでいるではないでしょうか。  

 話を日本に戻すと、東京にいたころ(1991-2年頃)気になったのが、電車が出発するときホームで鳴る音です。昔はただの警告音だったのですが、いつのころからか、新宿・渋谷を皮切りに短い音楽の断片が鳴るようになりました(吉村弘著『都市の音』に、これらの音楽断片の楽譜が掲載されていました)。  中央線沿線の駅も、これに乗じて音楽の断片を流しているようですが、みな同じ様な音楽しか使っていないので、うんざりします。1990年代初頭は、特に「a'-b'-g'-d"-/a-'-b'-g'-a'/…」(-=8分音符)や「g"-g'-a'-g'-/c"-g'-e"-g'-/g"-g'-a'-g'-/h'-g'-d"-g'-/g"…」(-=16分音符)の2種類ばかり。1996年東京を訪れたときは、新しい音に変わっていて、「a'-c"-f"-e"-f"--c"--/b'-d"-g"-f"-e"-d"-e"-c"…」(16分音符)と「c"-g'-c"-d"-e"--c"--/f"-e"-d"-c"-h-a-h-g…」(16分音符)に変わっていて、とても新鮮に聞こえましたが、これも毎日何度も聞かされると飽きるのだろうな、と思いました。  

 自分が音楽が好きだからなのか、不思議なことですが、以前のような警告音だったら、何度聴いても全然気にならなかったのが、音楽になると、頭から離れてなくなります。さらに、「メロディーが貧弱だ」「和声進行が単純だ」「音色がつまらない」など、実用的には全く問題のないことまで気になってしまいます。そこまでいかなくとも、同じ音楽の断片を毎日何度も聞かされるのにはうんざり、という人もいるでしょう。そういう点では、音楽は単純な警告音のように「無視できるもの」ではないのだということが分かってきます。ブザーならば、それほどいい音でなくてもよかったのです。  

 ところでアメリカの地下鉄の駅は、東京の駅から比べると、気持ちの悪いくらい静かです。ホーム内の放送もなく、電車がだまって近づいてきます。唯一ある警告音といえばドアが閉まるときに、電車がならすもので、あとは電車の動く音や人の話し声、駅構内のその他の小さな音だけです。 実は日本国内でも、ちょっと都会を離れると、駅は割合静かです。私が住んだ富山の私鉄の駅や新潟のJRローカル線では、やはり時間が来ると電車がやってくるだけでした。こういう環境を知ってしまうと、アメリカに比べてずっと電車が正確に到着する日本で、しかも一時間に何本も電車が来る東京で、いちいち「電車が来ます」とか「ドアが閉まります」などといったうるさいアナウンスが必要なのかと思ってしまいます。  

 電車といえば、日本の地下鉄の車内で聞こえる面白い音もあります。これは注意して聞かないと聞こえないし、新しい車種でないと聞こえないかもしれないのですが、電車が動き出すとかすかに風のようなd"が響くのです。この音が自然に5度スライドしてa"へ、この音が少し長めに続き、落ち着いたところで短くd"に戻るのです。私の友人もこの音に気付いたらしく、時々「今回は、どのくらいaが伸びるかな?」など、会話の話題にもなっていました。  

 こういった音の探索は楽しい一方、時には真剣な問題を考えてしまうこともあります。例えば毎日聞く音楽として、いろいろなお店で流れるBGMがあります。「美しい音楽を聞くと気持ちが休まる」とかよく言われますが、BGMはそれを見事に逆手にとったものだと思います。あれが必要なのは実は売り手の側であって、買い手の側にはそれほど必要でないのではないかと思われるからです。自分の必要なものを買うということだけならば気持ちを休める必要もありません。昔の八百屋や魚屋さんにBGMがあったでしょうか?聞き手の側から見ると、BGMは自分の意思に関わりなく聞かされる音楽で、コンビニエンス・ストアに買うものもないのに長くいてしまうのも、なんとなくお店に入ってしまうのも、中にいれば、音楽に乗せられてリラックスしてしまうからなのです。それは自分の役に立っているのではなく、商売をしている方の役に立っているのです。お客が長くいることで、購買意欲に関係なくいろんな商品に目をつけるかもしれません。なんとなくフラっと入ってくることも、より気楽になります。最近は音楽の合間にお店の宣伝のようなものも入っていますが、これなどはBGMの目的が露骨に現われている実例だと思われます。BGMに使われる音楽は、本当に美しいのでしょうか?  

 近年BGMは、商売関係だけでなく、医療機関にも使われているようです。これは一種の「音楽療法」なのかもしれませんが、最近の『朝日新聞』(インターネット版、1996年9月7日)に、気になる病院のBGMの例が載っていました。中島義道著『うるさい日本の私』からの引用でしたが、著者の母親の脳しゅよう手術の間に、十五時間にも及んで、ショパンの<小犬のワルツ>を繰り返し聞かされたというエピソードでした。本人はワルツを楽しんでいる心境でもないのに…。一方的に聞かされるこういった音の押し付けは、精神的には、すでに音楽作品が騒音になっている実例であり、その効果は暴力的でもあるかもしれません。音楽を「聴かされる」側の立場は、本当に難しいものです。  

 おそらくこういう問題を解決するには、いろんな人達が単純にわれわれの周りにある音を、もう一度注意深く聞き、探索すること(あるいはその様な活動を促すこと)が大事だと思います。「そんなの雑音だ」とか、「そんな音はどうでもいい」と思って無視してしまえば、何も発見されません。いわゆる騒音公害は、そういった暮らしの身の回りにある音を無視することから始まってくるからなのです。私たちは普段何を聞いているのでしょう? どんな質の音なのでしょう? その音はわれわれの社会のなかでどのような役割を果たし、どんな必要性(あるいは不必要性)があるのでしょう? など、問いかけてみることが大事なのではないでしょうか。  

 私たちの日々の生活には音・音楽が溢れています。音楽会場で聴く音楽もありますが、それだけではありません。街をちょっと歩いただけで、知らず知らずのうちに様々な音に出会ったりしているのです。いつの間にか、そのようないろんな音に興味を持ってしまった私ですが、ちょっと立ち止まって耳をすませれば、街にある音は音楽になり、風景を彩る素敵な存在となっていることがあります。そういうのを見つけると、普段何気なく通りすぎている街角が、突然楽しくなることがあります。家の中にもテレビやステレオ以外のいろんな音があり、どんな音がそこにあるのか、探検するのはとても愉快です。  

 時にはBGMの例のように、音楽と社会という難しい問題を考えることもあります。でも、こういうことは私だけでなく、多くの人が感じていることだと思います。現代においては、それだけ音楽が生活のなかに入り込んでいるということなのです。  

 私にとって音楽は生活そのもの。あるいは生活が音楽、といってもいいかもしれません。これからも、毎日の生活の中に見え隠れする不思議な音たちを探し回って、自分と音・音楽との関係について考えていくつもりです。みなさんも一度、自分の身の回りにある素敵な音を探して見ませんか?



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