メモ帳45

雑記

2004.9.10.アップロード

04.6.20.

金曜日から今日日曜まで、名古屋に行ってきました。名古屋市立大学で学会発表するためだったのだが、一人で名古屋を訪れたのは、これが初めて。特急電車でしたが、大阪に行くよりも長く感じました。でも独特の風情があって、いかにも旅行したという実感です。

名古屋も基本的には大都市の一つということになるのでしょうが、東京に比べると車の便は良いし、地下鉄の込み具合もまだマシ。生活するには良いのかもしれません。

でもCD屋は物足りないと感じました。私も相当オタクなんで、タワー新宿・渋谷くらいじゃないとダメなのかも。でも、せっかくなんでみそカツ食べてまいりました。うまかった。すがきやが多いのはさすが(かつてはユニー西町店にもありましたし、行きませんでした)。また、グッピーラムネの中刷り広告にはびびりました。富山も中部圏であることを、改めて認識した広告でした(?)。

私の妹のご主人が愛知県豊田市出身で、名古屋のことを「アンニュイ」という言葉で表現していました。なんか、言い得て妙だなあ。


04.6.21.

自衛隊がイラクでどのような活動を行い、その費用にどのくらいかかっているのか、ニュースを見るだけでは伝わってこない。インターネットは有象無象の集まりであるという指摘もあるが、貴重な情報源でもある。発信コストが安いだけに、安易な情報も流れる一方、大資本がなくても主張することが可能なのである。それにしても多国籍軍に自衛隊が参加するというのも、あまり大げさにとりだたされないのが不思議だ。もうすでに「軍隊として認知」され、「国際貢献」すべきということなのだろうか? いわゆる「なし崩し」を地で行くということか。


04.8.23.

昨日の甲子園決勝戦には感動した。どちらのチームも話題性充分、実力充分の見応えある試合。私個人は、駒沢大付属苫小牧を応援していた。おそらく私が富山出身であることによる「雪国」つながりからだろう。「深紅の優勝旗、津軽海峡を越える」にはジーンときてしまった。

これは冬場の練習量にハンデがある都道府県のチームにとっては希望となる勝利だったし、その反面、これからは「雪国だから…」という言い訳ができないということにもなるのだろう。いや、とにかく素晴らしい試合だった。富山の高校球児も来年はがんばれ!


04.9.4.

アメリカ時代の友人から電話がかかってきた。6日の誕生日を祝ってくれた。それと同時に勤めている有名コンピュータ関連会社がその拠点をインドに移すことになり、近々会社を辞めようかといういう話しも聴く。インド人は英語も堪能だしコンピュータ技術に対する関心も強く、これから世界中を席巻すると予言していた親戚の人もいたが、それが的中しつつあるのかもしれない。


04.9.8.

9月11日が迫ってきているため、NHKの『クローズアップ現代』ではニューヨーク在住のジャーナリストが自己のニューヨーク観を披露していた。こういう当たり前の事を当たり前に言える雰囲気が、私のいたアメリカにはなかった。だからこの番組は確かにアメリカ、ニューヨークの現在を深く探るものとしては興味深かったのだが、こういう内容は全くアメリカのメインストリートになっていないという印象を受けざるを得ない。確かにこのジャーナリストがいう通り、アメリカには「illusion」が蔓延している。だが、そういった「illusion」がどういう風に起こっているのかということにこちらも「直面」していかないと、アメリカ人の問題というのも見えにくいように思えるのである。もちろん当のアメリカ人(白人を中心とした)が現実を知ること自体も難しく、現実に直面せよとは簡単に言うが、単に「お前たちはillusionに浸っているぞ」とも言えないところがあるように思う。「ベトナムに比べれば大したことがない」などという発言、そしてそれが平然と受け入れられる土壌がまずあるということを考えねばならないだろう。


04.9.12.

日本は自分の国を誇りに思っていないという議論をきくことがある。私はそうは思わない。いつの時代も日本人は自分の国を誇りに思ってきたし、それは基本的に変わってないと思う。ただ表に出すか出さないかの違いではないかと思う。例えばハリウッド映画におけるトンデモ日本人を観た時のもどかしさ、これは自分たちが理解されていないことへの苛立たしさでもあると思う。誇りが傷つけられたのだ。海外に出る人は極端にその国に同化しようとするか、極端に愛国に走るという。前者は誇りをかなぐり捨て、別の誇りを手に入れようとする人、後者は日本人としての意識が極端に強くなったもの、いずれもアイデンティティの危機に陥った時、次に取るべきステップとして噴出するものに違いない。

ところで自己中心的な人も、これまたいつも存在すると思う。ノスタルジアにかられた人たちは、ギリシャ時代(?)から受け継がれた「今の若い人は」を繰り返しているが、それほど自分たちの時代は良かったのか、「若者」を育てた人たちに責任はないのか、バブル経済を生み出したのは誰だったのか、そういったことも、合わせて考えるべきかもしれない。もちろん国に忠誠を誓わすことで「自己中心的人間」が消える訳はない。アメリカを見よ!

今、「戦後50年否定」が流行である。戦後は戦前否定だった。前の時代を否定することは、いわゆる「前衛」の芽生えでもあった。一見新しいのである。

そうそう、今日「日本における人種差別」という文章をみつけた。主に某都知事について取り上げている。自国の問題に対する不満を外国人に向けるのはポピュリズムの常套手段であり、日本人の歴史認識もこの動きに加担していると指摘している。


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