メモ帳43

雑記

2004.1.6.アップロード

03.8.7.

広島市で開かれた平和記念式典にて秋葉忠利広島市長が読み上げた「平 和宣言」は、核兵器の恐ろしさを改めて考えてみること、アメリカの核開発を具体的に批判したこと、など大変充実した内容であった。『ニューヨーク タイムズ』では、さっそく「広島がアメリカを公然と非難した」という内容のヘッドラインが見られた。毎年お盆は戦争を考える時期である。新聞広告にはアジ ア太平洋戦争を振り返るビデオの広告がデカデカと載っているのも印象的だった。日本も苦しかったし、アジアの広い区域 の人々も旧日本軍によって苦しんだ(この「苦しみ」は積極的に共有できるものではないかとも思う)。もちろん日本とアジアの人々の戦争体験の「苦しみ」を 私が実際に体験した訳ではないが、語られた歴史に思いを巡らし、 受け継いでいくことは大切だろう。


03.10.1.

私の実家では、朝はNHKテレビを見ることになっている。個人的にはテレビなぞ見ない方が一番いいのだが、まあ仕方がない。この放送局 の7時台のニュース、ここ数日は小学校教育に関した問題をとりあげている。特に今日は教員免許を持ったアシスタントと地元の人のボランティアでチーム ティーチングという事例であった。先生も含めて全部でクラスに6人くらいいただろうか。きめ細やかな指導ができるのだという。

個人的には、教育問題の問題の根源の一つは、やはり1クラスの人数が多いことではないかと思った(「マスプロ教育」の言葉さえ、現在は忘れ去られて いるようだが)。アメリカの「教育水準」は「低い」とも言われるが、筆者が体験した限りでは「やはり20人くらいが理想」と思われる。教師と生徒の親密な コミュニケーションが自然体で行えるだろうからだ。人数が多いと、教室が演説調に話すスペースになるし、どうしても双方向のやりとりが難しくなる(BSデ ジタルの「双方向」のぎこちなさといったら…)。

このテレビを見ながら、家族でちょっとした会話になった。「学校の先生は世間を知らない」という一言も出た。どこがどうやってそういう話題になった の かは分からないが、これは商売をやっている我が家の人間からすれば、出てきても不思議ではない一言だっただろう。ただ一方で、その「世間」はどれだけ学校 のことを知っているのだろうか、という疑問も湧いてきた。テレビに映し出される学校の「現状」を朝食をとりながら他人事のように眺めてはいるけれど、学校 「現場」のことを肌で感じられる人は、おそらく私を含め、我が家には一人もいないことは確かなのだ。おそらくそれは小学校に子供を通わせている親たちに も、ある程度は当てはまってしまうように思う。

学校が閉鎖的だというのは確かに昔から言われているが、外の人間も学校を聖域化しているのかもしれない。

もう一つ、「世間を知っている」というのは、そもそもどういうことなのだろうか? これも考えてみた方がよいと思う。


03.12.19.

自衛隊がいよいよ海外に派遣されるという。ここ数日はNHKのニュースが自衛隊の宣伝のようだ。晩ご飯を食べながら、毎日迷彩服を来た隊員たちが行 進している姿が映し出されている。数年前からは考えられなかったような光景だ。

そもそも迷彩服がテレビで出る回数も、ここ数年格段に増えたようだ(災害援助などの映像では必ず映し出されている)。そして街角で迷彩服のデザイン をした衣 服を着る人もである。これも何年前だったか、迷彩服を来た自衛隊員が旅客機に乗るという「訓練」をしたという記事があった。隊員たちにはどのくらい「訓 練」に なったのかは分からないが、きっとそれなりの意義や影響があったのだろう。

「海外派兵は軍国主義の始まりだ」と言うと、とたんに嘲笑を買うという場面がインターネット上では広く見られる。しかし、現在日本が「軍国」に近付 きつつあるのは事実であり、そのための憲法改正(?)の議論までかすまびしく進められているようだ。

「平和を唱えるだけでは平和は訪れない」という人もいる。でもそれは「唱えなくても良い」ということではない。むしろ私は、この時期だから「平和を 唱えずして、どうして平和が訪れるのだ」と言いたい。

ついこの間、私たちの時代は「平和」という言葉を濫用しているという文章を読みました。「平和」を語りすぎている? そんなこと は 本当ではありません。いつだって、それは余りにもわずかしか語られていませんし、けっして充分に語られてはいません。世界はいまだかつて持続的な平和とい うものを体験したためしがないからです。(レナード・バーンスタイン1989 年、『バーンスタイン 音楽を生きる』(エンリコ・カスティリオーネのインタビュー)、青土社、2002、159ページ)。

04.01.02.

地元の映画館で『ラスト・サムライ』。すごい人気で席も指定せずに15分くらい前に着いたため、一番前に座らされたが、だんだん慣れてきたので、な んとか観ることができた。

それにしても、『ラスト・サムライ』には良くも悪くもハリウッド映画的な要素(イデオロギー?)が残っているのではないだろうか。例えば英雄の出現・愛郷 心や伝統の重視など。アメリカを題材としたこの手のものは山ほどある分こっちはうんざりしているのだが、いざ題材が日本になると、私も含めてコロっとやら れてしまう。すすり泣きしてる人は、やっぱりいたようだ(さすがに私は泣かなかったけれど)。

時代劇といえばNHKの大河ドラマがその王道となっているが、あの場合は時代劇にしても、やたらと史実や時代考証にこだわりすぎて、物語的に面白くなく なっているところがある(ファンの方ごめんなさい)(黒澤映画の『七人の侍』や『用心棒』など、本当はかなり突っ込まれるのではないか?)。『ラスト・サ ムライ』は架空の武士を想定してるのだが、物語としては焦点がしっかりしてのではないだろうか。またセリフが少なめで、表情で見せる部分が、結果として凝縮した演技につな がっている。そのため受け止めるこちら側も真剣さが違うように思う(大河ドラマは「語り過ぎ」なのかも。ナレーションも結構あったなあ)。もっとも、この辺りは字幕を読まないアメリ カ人に配慮しているのかもしれないけど。

剣術の撮り方はカンフーの影響があるらしいのだが、テンポが速く、間合いも違うかもしれない。時代劇ファンからすると、目が追い付かないのではないだろう か。

泣いてしまう人は、やっぱり武士側に入れ込んでしまうのだろう。実際そういう立場に立って作ってあるから、それ自体は自然なことなのかもしれない。アメリ カ人からすれば、軍国を作り上げた張本人である政府についた側、武士道を捨てさせることを助けた側ということもあって、あまり心地よい立場にいられないの かもしれない。

現代的視点から考えれば、それでも開国しなければ西洋の列強が来て、植民地となった。遅かれ早かれ武士の時代は終わったのだとする歴史観もあるようだ。し かし歴史には「IF」がない。植民地化されて武士の運命はどうなっていたのだろうか。

それにしても、映画のちょっと暗めの画面は独特の味だ。『ラスト・サムライ』はハリウッド・プロダクションだが、日本人は「邦画」として観ているのではな いだろうか。頭と終結部を切った日本の武士役が活躍する箇所に、やはり焦点が定まってしまう。

トム・クルーズの役について疑問があがるのは当然で、彼が人間としてどう成長するのか云々というのは、ほとんど物語としては、枝葉末節の部分となっている ようだ。アメリカ人の中には『ダンス・ウィズ・ウルブス』のようなポリティカリー・コレクトネスを狙った映画とする批評家もいるようだが、彼は傍観者とし て取ってつけたように、あるいは映画の「ウリ」としての存在なのかもしれない。

いずれにせよ、私はこれを機に、日本においても、テレビとは一線を画した時代劇映画が生まれれば良いと思った次第である。予算が厳しいのは仕方がないのだ けれど、何とかならないのだろうか。

04.01.04.

『ラスト・サムライ』の渡辺謙がやたらとかっこよかったので(?)、今日は録画しておいた『独眼竜政宗』(の2日目)を見た。テーマ音楽は良いと思う一 方、やっぱり大河ドラマというのは私の肌には合わないなあと、改めて実感。それにしても、テーマ音楽の前に歴史トリビア(?)が入るのはこの番組からだっただろう か? 光線をバックに使ったオープニング映像も、当時はかなり斬新だったと思う。
04.01.06.

今日から富山市立図書館が使える。さっそく 『八代将軍 吉宗』と題されたNHK大河ドラマ主題歌集のCD2枚組を借りてくる (^_^;;。これはいずれ購入したい。以前『独眼竜政宗』までを集めた1枚モノのCDを私は持っていたが、誰かに貸したかなにかで紛失したままになって いる(心当たりの人は、早急に連絡されたし!)。もちろんお目当ては、当時も今日も『独眼竜政宗』で、この曲に関していえば、プレーヤーがリピート状態に なっている(ドラマ本編の方にはあまり熱心ではなかったが)。池辺晋一郎さんのテーマ音楽は冒頭部からしてインパクトが強いし(何旋法?)、オーケストレーションも濃 厚。対位法を駆使し、終始旋律が絡み合う緊張感の抜けない展開。しかしオンド・マルトノという楽器は当時知らなかった。音符の多く 詰まったように聴こえる音楽も、これが一つの究極の姿だったのかも(去年のモリコーネとは対照的?)。録音に関していえば、かなり細かくイジってあると いう印象。

それにしても大河ドラマの音楽の作風は、やはりシンフォニックな音楽を書いていた50・60年代までのハリウッド作曲家の影響があるんだろうか?

ちなみに『独眼竜…』以外では『獅子の時代』(の音楽 (^_^;;)が好きだった。

地元の本屋には新渡戸稲造の『武士道』が平積みになっていた。フロリダ州立大学の本屋にも以前から英語版があり、いわゆる侍の美学について知るには古典的 存在だという。ただ英語が19世紀末のもので、シェイクスピアなどの知識が理解には必要だと聞く。随分前に岩波文庫のを書店で覗いたことがあったのだが、 すごく難しかった記憶がある。

と、今となりの部屋の本棚を覗いていたら、岩波文庫版があった。すっかり忘れていた。英語版がオリジナルであることも。

メモ帳目録に戻る
メインのページに戻る