メモ帳35

雑記


2001.7.25.アップロード

2001.5.29.

私の出身地富山で、『コーラン』が破り捨てられるという事件が起きる。とても残念だ。イスラム教徒が怒って抗議するというのも当然だろう。ああ、いよいよ本格的国際化がやってきた、日本人が試されるな、と思った。信仰って大切ですからねえ。その大事な聖典がびりびり破り捨てられるというのは、つらいことですよ。自分が否定されたような気分になるだろうし、社会的に自分がどういう風に見られているのか、恐怖を感じるかもしれないし。みんながみんな、こんなに心の狭い人じゃないんだろうけれど、それにしても、よりによって、私の出身地で起こったのにはショック。日本人の、和の精神とかやらは、どうしちゃったんだろう? 日本は平和な国なんですから、平和に行きません?

といいながら、私もイスラム教についての知識というのはないので、エラソーなことは言えないなあ。『コーラン』は本屋さんにも売っているみたいだけど。

前回銭湯について書いたけれど、京都の民宿に泊った時、外国人の多い場所で、お風呂にも、その入り方が説明してあったのを思い出す。日本のお風呂の習慣というのは独特のものなので、外国の人にはぜひ学んでほしいものである。そこでは絵付きで英語の解説があった。でも、アメリカから来た子どもたちは、みんな知っていたみたいだったけど。一緒に風呂に入ったのかな〜。おそらく貴重な体験になったと思う。

反対に、外国に来る日本人がよく失敗するのが、お風呂のお湯を溢れさせてしまうってやつ。湯舟を出たお湯はそのまま部屋に流れ込んでじゅうたんが水浸しになったり、下の階に漏れたりで、それは大変な事態になるとのこと(自分はやったことがない)。私の住んでいるところはシャワールームしかないので、暖かいお湯につかって「ふぅ〜」と一息つけないのが残念。スポーツジムにあるのは水着を着て入るもの。でも、やっぱりあれだとお風呂に入った心地にならないなあ。お湯がぬるいし(反対にアメリカ人には、日本のお風呂は熱すぎだということらしい)。


2001.6.3.

床屋へ行って髪をばっさりと切ってもらう。アメリカではバリカンの入れ方が番号で決まっているようで、3番だとまあまあだが、2番になるとかなり短くなる。頭の上は普通は入れないのだが、今回は2番で全部ゾリゾリとやってもらった。1年に何回かはこれをやりたくなる。やっぱ短いのがいいです。


2001.6.4.

日本のサイトを見ていると、「戦後民主主義」という言葉をよく目にする。何とも不思議な言葉だな〜と思っていた。そこに何となく感じるのは民主主義に対する懐疑というか、否定的な見方である。権利は主張するが義務を忘れている、というのが大方の主張のようだ。でも、民主主義には、本来義務は含まれるべきではないだろうか、と思うこともある。アメリカでもこういのは、よく議論されているのではないだろうか。いわゆる「自由の履き違え」ということだろう。

確かに政治に不満を持つ人は多いようだ。「誰がやっても同じ」という声も聞く。しかし私は時々、これも義務を忘れた発言ではないかと思うことがある。何しろ政治の主役は市民の一人一人なのだから、政治に腐敗があるのだとしたら、それを放っておいた自分たちにも責任があるというものだろう。カナダのテレビ局が制作した「民主主義への闘争」というドキュメンタリー・ビデオを見ていたら、日本の民主主義が「アマエ(甘え)の民主主義」と説明されていた。一度政治家を選んだら、何から何まで任せっきりだからだというのが、その理由だそうだ。日本のジャーリストというのは、これまでいわゆる「権力」の側を批判してきたというけれど、それに市民の側はどう答えてきたのだろうか? より良い社会になってきているのだろうか、考えさせられる。いや、もちろん主権在民を主張する自分たちが権力になる可能性も考慮しなければならないが。

4時ちょっと前から8時半まで図書館で資料調査。文字どおり時間を忘れてやってました。おかげで面白いものも入手。


2001.6.23.

今日は論文があまりはかどらなかった日。時々こういうことがある。なぜかはかどった日の次の日であることが多い。反省。

昨日は、また日本人同士が集まって、夕食会。(即席)ちらし寿司と、たたき。う〜んやはり日本人はこういう食事が合うなあ。食事後は、例によって歌合戦。ちょっと日本のビデオなんかも見る。よせば良いのに、朝6時近くまで数人が居座る。すごく後悔。後悔したのは会話の中身も。

今日は午後、昨日いったお宅から借りてきたダウンタウンのビデオを見る。しかし、あまり下ネタが多くてショックでもある。私の生まれた頃ならば「低俗番組」で、夜10時以降だろう。「ごっつええ感じ」(もう終わったけど)は日曜8時だったはず。こんなの放送して良かったんだろうかって思う。心ん中がアメリカ化しちゃったのかなあ? 最近テレビを見ないので、何とも言えないんだが。「いじめ」シーンが、やたら出てくるのも、現代を反映してのことだろうか。

アメリカのテレビ番組は性表現よりも、暴力シーンが圧倒的に問題だと思う。善悪がはっきりした単純なストーリー展開もそうだが、映画であそこまでうるさく子どもを教育しているつもりなのに、テレビはあれだし。ディズニー路線は子どもにも安全だけれど、ちょっと歳を取ると、暴力の世界に叩きこまれる。やはり、暴力で安易に諸問題を解決しようとしないことを教える必要があるのではないかと思う。


2001.7.17.

日本では何でも、歴史教科書が話題になっているという。そういえば侵略が進出と書き換えられたことがあったなあ。私からみると、すでに歴史学的に確定した過去の記述については、やはりその主流をいく考え方に沿うべきではないかと思うし、いたずらに、韓国や中国の人の感情を害してはいけないのではないかとも思う。不況とはいえ、まだ日本はアジアの経済の大部分を担っているのだし、食物の自給率も低い。世界の人と仲良くやっていかないと、自分の生活にも影響が出てくるように思うのだが。私もよく、韓国人経営の食材屋にお世話になっているので、こういう国際問題が起こると、辛くなる。


2001.7.22.

友人の日本人と電話で長電話。もともと彼は所沢で育ったが、現在はご両親とも、宮崎に引っ越したとのこと。「やっぱり宮崎はいいなあ」と本人もうれしそう。でも彼と話していると分かるのは、やはり「田舎」という概念が都会的だということ。都会人にとっての「田舎」というのは、憧れの地であったり、空気のいい土地であったり、人の暖かい土地であったりする。私のように「地方」出身の人間からすると、「田舎」というのは、屈辱的な言葉にしか聞こえないのだが、やはりそれは、田舎人同士の会話によることなのだろうか、と思う。以前にも東京の方とメールをやりとりしていたが、やはり「田舎」というのは、すごく良いイメージで捉えられているようだ。私など、幼いころから「都会」への憧れというのは強かったから、都会というのは、本当に幻想の中の存在であったように思う。確かに2年の東京生活で感じたことは、必ずしもその幻想と一致するものではなかったが、好きな音楽をやるということでは申し分ない環境だった(お金がかかりますけれど)。生活となると、確かに人ごみや空気の悪さは気になるものだけれど。

「宮崎はいいよう」と言われると、別に私が宮崎の人間でもないのに、「いや、そうは言っても、地元の若い人たちには、東京に出たいという人がたくさんいるにちがいない」という、非常にいやらしい想像をしてしまう。おそらく自分が富山にいた時、そういう風に思っていたことからの類推なのだろう。「そこがお前の田舎者らしいところ」と突っ込みを入れられれば、「はい、そうです」としか答えようがないのだが。いや、みんなそんなにひがんでる訳じゃないでしょうけど、いやだなあ、こういう自分。


2001.7.23.

アメリカで、ちょっと日本が偉く見えるときがある。例えば、ある日、電器屋さんでビデオの回りをうろついていたら、黒人のおばさんが店員さんに「日本製のビデオを探しているんだが」と尋ねてきたときがあった。彼女はここで、「日本のブランドでも日本製じゃないのがあるでしょ。私は日本製のが欲しいの」と言っていた。つい、自分が作った訳でもないのに、日本製ビデオがブランドになっていることがうれしくなってしまう。まあ、こういうナショナリズムなら「お国自慢」で良いのではないかな。日本車も多いしね。私の乗っているのもトヨタ。これはたまたまそうなだけなんだけど (^_^;;



メモ帳目録に戻る
メインのページに戻る