メモ帳17:富山にて(6)

(1998.8.16.)

お盆を迎えて、テレビでは第二次世界大戦に関する番組が数多く放送されている。敗戦記念日だからそうなっているのだが、この時期にしか戦争に関する番組が放送されないという批判もあるそうだ。

私はそれでもまだやっているだけいいとは思っている。ないよりもずっといいではないか。それよりも私がちょっと気にかかるのが、戦争というと、第二次世界大戦のことばかりだということである。

アメリカで何度かpostwar(戦後)という言葉を使ったことがある。すると、アメリカ人はどの戦争か、と尋ねてくる。日本で戦前・戦後というと、対象は第二次世界大戦になるのだが、その戦争のインパクトの大きさ故に、その言葉が暗黙に第二次世界大戦を意味しているのだとそのとき初めて理解したのである。

もう一つ、戦争番組で気になるのは、アメリカと日本の戦争の描き方である。アメリカの戦争ドキュメントは常に軍事活動や決戦が中心であり、庶民の立場から描かれたものがきわめて少ないのである。日本では、生活が日々苦しくなって食べ物がなくなっていったことや、学童疎開や空襲や原爆で亡くなった人たち、または敗戦を迎えた日本の人々などが中心に描かれる。

私がアメリカでみたドキュメンタリーで一番驚いたのが、アメリカの戦後、しかも日本が無条件降伏した直後のニューヨークである。兵士が戦地から帰ってくると、ニューヨークじゅうで盛大なパレードが続く。華やかにマーチが演奏され、花吹雪が舞う。これがアメリカ人にとっての戦後だったのか(しかも、たいていのドキュメンタリーがここで幕切れになる)。

アメリカの第二次世界大戦ドキュメンタリーが軍事中心だと述べたが、ある程度それは当然だろう。何しろアメリカの領土で直接的被害を被ったのは真珠湾くらいなのだろうから。でも、この軍事中心の描き方にも一つ疑問がある。それは東京や日本の都市部を狙った空襲について何一つ言及しないドキュメンタリーが非常に多いことだ。沖縄戦はたいてい含まれている。アメリカ兵がそこで犠牲になったし、人間同士の戦いだからだ。しかしそのあとはすぐに原子爆弾の投下になってしまうのだ。

さすがに原子爆弾の投下に対してはアメリカ人にも多少罪の意識があるようだ(もちろんそれによって本土決戦がなくなり、アメリカ兵が大量に戦死することを防ぐことができたといって正当化しているが)。しかしアメリカ人兵士が全く無傷で通った空襲は、まったく自分たちには関係ないというかのように省略されていることが多い。真珠湾の部分が20分くらいかけて詳細に描かれるのとは対照的だ! だいたい戦争に関係ない庶民を殺したことは戦争犯罪になるはずなのだが、勝てば官軍で全く無視されているのは憤慨ものではないだろうか(PBSのPeople's Centuryという番組は、庶民の死に対する描き方に関してはよかったと思う)。

それでもアメリカのドキュメンタリーで刺激的だったのは、日本がどのようにアジアの戦場で戦ったのかが、大きく描かれていること。アメリカは敵国だったので、当然日本は悪の集団として侵略戦争を行ったことになっているのだが、日本のテレビではこのあたり、日本軍がどのようにアジアを舞台にして戦ったのかがよく分からないのである。

残念ながら、そういったドキュメンタリーの中には、明らかにプロパガンダのフィルムを使ったようなものもあり、ドキュメンタリーというよりも安っぽいドラマになってしまっているものもある。日本がアジアの一国を手に入れる度に同じ映像で「バンザーイ」という日本兵の姿が現れるばかばかしいのもあった。あれなどは、いたずらに反日感情をあおるような気がしてならなかった。

そういう欠点はあっても、日本が戦争で何をやったのかということについて、少しながら興味がわいたし、アメリカ人が未だに日本人を嫌っているということがあるとしたら、こういうところで作られたイメージがあるのだろうな、と思うことがある。

私は、アメリカで制作されたドキュメンタリーと日本で制作されたドキュメンタリーが一度交換して放送されたならな、と思うときがある。お互いの立場で世界大戦を考えるということがなされてもいいと思う。いまだにアメリカでは日本人は好戦的だと考えている馬鹿ものもいるようだが、そういう人に、今日本人が何を考えているのか伝えられたらいいのに、と思う。戦争の恐ろしさについて多くを語っているのは、アメリカよりも日本ではないかと思うときもあるし。いや、それを語ってしまうと軍事大国アメリカは成り立たなくなるのだろうか。


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