Mr. Tの現代アメリカ音楽講座




1999年4月25日アップロード


これは新潟県新津市にあるFM新津の番組「ドクターヨコサカのクラクラクラシック」において、4月末に放送されたアメリカ音楽紹介の原稿です。


皆様こんにちは、フロリダ州立大学院の谷口です。

先月末までの放送では、アメリカ人作曲家がヨーロッパ音楽を消化吸収し、自らの音楽伝統を作り上げる努力の成果を19世紀後半を出発点にして追跡してきました。今月からは、時代の枠だけでなくより多様な側面から、アメリカのクラシック音楽の魅力に迫りたいと思います。

さっそくですが、今回は、これまで放送してきました音楽とはちょっと傾向の違うものを紹介したいと思います。それは、アメリカのなかに、小さいながらも力強く存在するアジアの音楽文化です。

ヨーロッパやのアフリカの文化に比べますと、アジア文化が本格的にアメリカに入り込んできたのは、相対的に新しく、20世紀初頭あたりからとなります。しかしアジアの文化は、西洋とは一味も二味も違う訳で、今日その影響を無視することはできません。

今回ご紹介するヨーロッパ系の作曲家たちは、単にアジアを見知らぬ異国として思いを馳せただけでなく、実際にアジア各国を訪れ、肌で文化を体験しています。それらが音楽としてどのように表現されているのか、実際の作品を通して見ていきましょう。

最初にご紹介しますのは、カナダ生まれのコリン・マクフィーです。マクフィーは正式な音楽教育を本国カナダとアメリカで行いました。しかしその後、インドネシアの文化に魅了され、1931年から1938年、実に7年間をバリ島で過ごしました。1930年代といいますと、日本では昭和の初期に当たりますね。

マクフィーは作曲家でしたから、当然バリ島の音楽にも強い関心をもち、精力的に調査研究を行い、400ページにもわたる研究書まで出版しました。今日でも彼の書いた「バリ島の音楽」という本は、英語圏においてはスタンダードな資料として使われており、マクフィーは、まさしく民族音楽研究のパイオニアの一人であった訳です。

そんなマクフィーが、自分の吸収したバリ島の音楽を、ぜひ自分の育った西洋音楽文化のなかにも再現してみたいとおもったのも、無理はありません。これからお聞きいただきますのは、マクフィーが 1936年にオーケストラのために書いた<タブー・タブハン>という作品です。この「タブー・タブハン」というのは、バリ島で使われる言葉「タブー」という言葉から来ています。これはもともと打楽器をうつバチのことを意味しているそうで、「打つ、叩く」というように拡大された解釈もなされるのだそうです。「タブー・タブハン」はその「タブー」が集まったもので、様々な太鼓、金属楽器、いわゆるインドネシアに固有の「ガムラン」というオーケストラ、さらに、そういった打楽器を中心とした音楽全般を指しているようです。

しかし、実際にこのマクフィー作品で使われている楽器はすべて西洋のオーケストラのものであり、例外としてバリ島のシンバルが入っているだけです。バリ島のガムラン音楽をご存じの方は、この曲がいかにそのエッセンスをうまくくみ取っているか、お分かりになるでしょうし、ガムランの音楽はまだ、という方は、この音楽の不思議な魅力を感じ取っていただいて、ぜひ本物のガムランも、一度お聞きいただくとよいのではないかと思います。

それではコリン・マクフィーの<タブー・タブハン>、今回は時間の都合で全3楽章からなる組曲から、後半の2つの楽章をお届けします。演奏はハワード・ハンソン指揮の、イーストマン・ロチェスター管弦楽団です。

[ここで音源] <タブー・タブハーン>から、第2楽章<<ノクターン>>、第3楽章<<フィナーレ>>/コリン・マクフィー作曲/ハワード・ハンソン指揮イーストマン・ロチェスター管弦楽団/使用音源=Mercury 434 310-2 [CD].

次は、1911年生まれのアラン・ホヴァネスです。ホヴァネスはアルメニア人の父とアイルランド出身の母親のもとに生まれました。ボストンのニューイングランド音楽院で正式な音楽教育を受けた後、何の変哲もないヨーロッパ音楽を書いていたようなのですが、作曲家としても有名だったレナード・バーンスタインやアーロン・コープランドから強い批判を受け、それまでに書いていた作品の多くを破棄してしまいました。それから彼は自分の作曲について改めて考え直すことになり、それまで軽視していた父親の出身地でありますアルメニアの音楽伝統に目覚めます。と同時に東洋の音楽全般にも興味を持ち始め、1959年にはアジア諸国を訪れ、インド・中国・韓国・日本の音楽伝統を研究しました。その中では特に日本の音楽に関心を持ったらしく、<浮世>とか、<日本の版画による幻想曲>、<苔の庭>といった、日本を題材とした作品も数多く書いています。

今日これからお聞きいただきますのは、そういった日本を題材にした作品から、ホヴァネスが日本を訪ねる時、飛行機の中で書いたという<小町>というピアノのための小品集です。この「小町」というタイトルは、平安時代の女性で、六歌仙のひとり、そして絶世の美女だったというあの小野小町のことなのですが、彼女の特定の和歌が音楽の題材になっているという訳ではないようです。むしろ、作曲者ホヴァネス自身の言葉を借りますと、「自然によって喚起された発想による小さな詩の数々」というようなもののようです。収録されている7つの短い曲にはそれぞれタイトルがついておりまして、、柳の木の精、神の山の伝説、雨の竪琴、伝説は山に昇る、空に舞う夜明けの鳥たち、青い山にそそぐ雨、そして、月の竪琴というのだそうです。何となく神秘的でありながら印象的なタイトルですね。音楽的には五つの音からなる日本独特の音階が使われていて、ややステレオタイプな響きもするのですが、日本に思いを馳せるアメリカ人作曲家の旅の思いを感じていただけると幸いです。

それではさっそく、作曲者アラン・ホヴァネスのピアノ独奏で、<小町>作品240をお聞きいただきましょう。

[ここで音源] <小町>作品240/アラン・ホヴァネス作曲/アラン・ホヴァネス(ピアノ)/使用音源=Fontana Records 17062-2 [CD].

最後は、ヘンリー・カウエルという作曲家です。カウエルは1897年カリフォルニア州に生まれたのですが、その中でも、特に中国人と日本人が多くすむサンフランシスコのある地域で幼い頃を過ごしました。当然中国人や日本人の子供たちと遊ぶことも多く、その中から、いろいろな音楽を身につけていきました。実際カウエルは、子供のころ、中国や日本の歌をそれぞれの言葉で歌うことができたそうです。後にカウエルは、西洋の音楽も勉強したのですが、やはり幼いころの経験からか、東洋の音楽にも関心をもち続け、1931年から32年にはベルリンで「比較音楽学」という学問に触れることになります。これは、西洋それ以外の地域の音楽の在り方を比較して研究するもので、今日「民族音楽学」などともいわれる学問体系のもととなりました。

その後、1956年にカウエルは奥さんのシドニー・カウエルとともに、日本を含むアジア諸国を旅したそうですが、これからお聞きいただきます<ペルシャ風組曲>は3ヵ月、イランの首都テヘランに滞在した時に書かれたものです。このテヘランの滞在の間、カウエルはほぼ毎日イランの伝統音楽や民謡を数時間にわたって聴いたそうですが、そこで自分が吸収したものを音楽作品として表現しようと試みたようです。

楽譜には室内オーケストラのために、と書かれておりまして、タールというイランのマンドリンやペルシャの太鼓などが編成に含まれています。これらの楽器の音が否応無しにペルシャ風の響きを醸し出していることは間違いないのですが、曲に使われている音階も、やはり独特です。

常々世界のいろんな音楽に関心のあったカウエルは、西洋と東洋の音楽伝統が融合した「世界音楽」というのもがあると信じていたようです。特に多民族国家アメリカで育った彼にとって、日本や中国、その他の東洋の国々の音楽も、すべてアメリカ音楽の一部だったんです。

それでは、ヘンリー・カウエルの<ペルシャ風組曲>を、レオポルド・ストコフスキー指揮のアンサンブルでお聞きいただきます。4つの楽章からなる組曲から第3楽章を除いた3つの楽章をお届けします。

[ここで音源] <ペルシャ風組曲>から第1、第2、第4楽章/ヘンリー・カウエル作曲/レオポルド・ストコフスキー指揮のアンサンブル/使用音源=Composers Recordings ACS 6005 [カセットテープ]、現在はCitadelからCDが発売中(88123、写真参照)。

こういったアジアに魅了されたアメリカやカナダの作曲家たちの作品を聴いてみますと、単にアジアといいましても、実に多用な音楽のあることに気付きます。また、こういった音楽伝統を貪欲に吸収しようとするエネルギッシュな作曲家たちの意気込みが、それぞれの楽曲に感じられたのではないでしょうか。


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