最近見たもの、聴いたもの(9)


2000年2月26日アップロード


2000.2.25.

Hindemith, Paul. Hin und Zuruck (Sketch with Music) Op. 45a. Claus Bock, tenor; Barbara Miller, soparano; Ulrich Schaible, baritone; Helmur Kuhnle, bass; Members of the Berlin Symphony Orchestra; Arthur Gruber, conductor. 米Candide (Vox) CE 31044 [LP].

1920年代のヒンデミットは、割と新しい音楽を書いていたと聞いていたのだが、確かに後の埃のたつような音楽に比べれば、すっきりとした響きで面白い。いわゆる無調とはあまり関係がないけれど、ワイルほどのアクは感じない。発想が柔軟なように聞こえる。中期のストラヴィンスキーにも通ずるものがある? 同じくA面には「ヌシ・ヌシ」からの舞踊組曲。冒頭はオスティナート的な音型を多用し、緊張感のある展開。途中からは音色の使い方も面白く、こういう作風で書き続けていてくれたら、私ももっと彼の作品が好きになれたかもしれないなぁ、と思った。こういう作風がもとで亡命することになった、というのは、ちょっと今からだと考えにくいことだけど。B面は「Der Damon」作品28。こちらも、新古典の様相。透明感がある。

Bruckner, Anton. 150th Psalm. Vienna Akademie Kammerchor; Hilde Ceska, soprano; Vienna Symphony Orchestra; Henry Swoboda, conductor. Westminster W-9600 [LP].

交響曲の、あの独特の繰り返しの音型ばかりが頭にあったので、意外とすんなり進行しているようにも感じたが(でも最後は「やっぱり!」という感じ)、やはりそうは言っても19世紀後半。和音の絡み合いが複雑であり、何調で書かれているのかが、直観的にはだんだん分からなくなってくる。後半には、畳み込むような転調や半音階的な進行もあり、驚いた。録音が悪いので、テキストが聞き取りにくい。もちろん聖書からとられているので、それを読めばいいのだろうが、それにしても、楽曲解説の箇所に翻訳が欲しい。


2000.2.24

20世紀音楽の授業、今日はヒンデミットの「音の遊び」。古典的な側面と、20世紀的側面を分けて議論。彼はフーガは3声しか使わなかったそうだが、それが短い曲の展開となり、きっちりとしたフーガにはならないということ。また間奏曲では、音域の上昇と下降が古典的フレーズ感を作っていることや、機能和声との関係などが指摘される。その他、ゲッベルズの「ドイツ音楽の退廃」についての文章についての議論。ドイツ音楽がメインとなったのは、ベートーヴェン以降であり、音楽がもっともドイツ的な芸術だというのは誤りだ、とか、そもそもドイツが統一されたのも、たかだか数十年の話だという意見が教師から出される。まぁ、政治家ですから、どちらかというと、確信犯的というよりは、無知に近かったのではないか、という気もするのですが、しかし、文化国家ですから、案外詳しく知っていたのかな、という気もします。これは長木さんのお書きになった本を読まなければなりませんね(夏休みまで、待たなきゃだめだなぁ〜)。以前学生からは、こういう文章を読ませることに対しての抵抗があったということですが、先生は、過ちを繰り返さないためにも、こういうのを敢えて読まなければならないとのこと。正論ですね。

タイニー・グライムス サム・グルーヴィー・フォーズ 仏Black & Blue 59.067 2

最初の方は、どちらかというとリラックス系のギター・ソロだが、ブルースの香りがするところが良いといえば良い。ジャズ・クラブで食事をしながら、酒を飲みながらのバックグラウンドという感じ。しかし、アルバム・タイトルになっている曲は、なかなか面白い展開。5トラック目の「俺は新しい女をみつけた」では「スウィングしなきゃ、意味ないね(っていうんだっけ? 日本語訳って)」が引用されている。この辺から、テンションが上がってきて、集中力も増してくる。7トラック目の「レスラーが飛び込んでくる」は、特に即興の面白さが生きている。ズッコケのエンディングも良い。

「サラフィナ」の声 希望と自由の歌 New Yorker Video

結局最初の10分くらいしか見ていないけれど、南アフリカのスウェト・アップライジングの時のことを題材にしたミュージカル。学校教育にまで軍が入り込み、言論の自由が踏みにじられるその瞬間。訴えるものは強い。アフリカ語をあえて強制することで、外部との情報交換を断つなど、刺激的な発言もあった。実際の舞台から、数多く抜粋されている。


2000.2.23.

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ホロヴィッツ(ピアノ)、オーマンディー指揮ニューヨーク・フィル
米RCA CRL1-2633 [LP]

カーネギー・ホールでのライヴ(1978年1月8日)。ホロヴィッツのアメリカ・デビュー5周年記念。強い打鍵が売り物の一つでもあるホロヴィッツだが、決して闇雲に強い訳ではなく、輝くような美しさに結び付いているので、効果的だ。また、音色にしてもダイナミクスにしても、その幅広さは驚くべきで、次々と紡ぎだされる音の渦に、ついつい吸い込まれてしまう。かっちりとした計画性をもって曲を構築していくという感じはしないが、それだけに、次に何が起こるのかという期待感も、もたらしてくれる。オーマンディー指揮により、NYPも豊かな響きでホロヴィッツをサポート。もっと積極的になっていいところもあると思うが、全体としては、ソリストをうまく引き立てているという印象だった。

ドビュッシー 練習曲(1915年)ほか ワルター・ギーゼキング(ピアノ)
米Angel 35250 [LP]

<<5つの指のための>>が、特に印象に残る。最初は単純な指の運動のようなのだが、いつのまにか、違った世界に連れていかれたという印象。ギーゼキングはドビュッシー弾きとして有名だそうだが、どうも私には、イマ一つ。

Preservation Hall Jazz Band. Songs of New Orleans Part I.
米Preservation Hall VPS-5.

ニューオーリンズのタワーレコードで購入。こっちに帰ってきて、すぐ聴いたのだが、特に「マーディ・グラに行こう」のW. Bruniousの歌を聴いたとたん、ニューオーリンズの記憶が蘇り、「ああ、これこれ、こういう感じ!」と妙に納得したのを記憶している。今聴くと、どうもその感情がだんだんと薄れていくようで、寂しい。数日もすると、またブルースがお似合いのけだるいフロリダの頭に戻るんだろうか。そういえば、ニューオーリンズのおみやげ屋では、ケイジャンやザイダコがよく流れてたなぁ。どうもそっちの印象も強い。


2000.2.22.

20世紀音楽の授業、今日はウェーベルンの弦楽四重奏曲とベルクの<叙情組曲>。前者では、いわゆる点描主義とか音色旋律の議論。でも、生徒は、こういうのを頭で覚えているって感じがして(用語として覚えていて)、どうもねぇ。で、そこから楽譜に入っていく。演繹的じゃないんだなぁ、そういうのって。その他、曲の形式感はどうやって作られているか、それぞれの部分の特徴、音列が作品構造に大きな影響を与えていることなど。ベルクでは、冒頭に現われる主題のリズムが作品全体を統一する手段の一つになっているんじゃないかっていう議論。もちろん音列云々(一つおきにみれば調性的ということ)についても言及。授業のあとで、先生に「音を繰り返すってのが、ヴェーベルンにはない特徴ではないか」と指摘。納得してもらう。しかし、この冒頭も面白い。12の半音を全部提示して、次は5度の積み重ね。それから主題がでてくる。

それにしても、この先生ってCD持ってないよな〜。図書館のLPカセットに入れて、クラスでかけてるから。アメリカの学者ってそういう人が多いような。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第10番作品74「ハープ」 ジュリアード弦楽四重奏団 CBS M3K 37869

「ハープ」というあだ名は、第1楽章に頻発する印象的なピチカート奏法によるもの。しかし、作品の面白さは、むしろ、中間楽章にあるような気がする。第2楽章。魅力的な旋律と、変奏法のうまさを思いおこさせる対比主題。発想の豊かさと深遠さがうまく現われていると思う。スケルツォは、ベートーヴェンらしく、嵐のようなもの。中間部の対位法は、ドラマティックな効果に溢れている。

ジュリアードのような演奏は、色彩が乏しい、などと批判されてしまうのだろうか? しかし、この圧倒的な主張の強さ、集中力があれば、聴き応え充分だと思うのだが。


2000.2.21.

ローウェル・リーバーマン フルート協奏曲 シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

NPR(全米公共ラジオ放送)の番組「Performance Today」にて。彼の作品は、確かに接しやすく、受けやすそうだ。しかし、どうしてこの曲をN響が? と思ったことも確か。演奏は、ちょっと注意深すぎる感じもしないではないが、アメリカのオケにありがちな、荒っぽさがなく、きっちりと整えられたという印象。もちろん、もうすこしいい加減だと、アメリカらしくなるのかも。でも、あらためて、そのうまさに驚いた。

モスクワのホロヴィッツ 米MGM/UA Home Video

1985年、モスクワでのリサイタル。確かに細部にこだわると、一聴して間違えている箇所は分かるし、和音ではなく、音のブロックのようになっているところはある。しかし、そんなところばかりに気を囚われるようならば、音楽全体のスリリングさを見失うことになるし、表現に決定的な印象を与える音色への配慮や自然な音楽構築性などが楽しめなくなってしまう。ミスタッチは決して大きな傷にはならないし、また肝心なところではしっかり聴かせる。完璧などという言葉を使うと嘘になるが、このどきどきするような感覚、高揚してくる感情などは、やはり一流の音楽家でなければできないことであろう。


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