最近見たもの、聴いたもの(7)


2000年2月11日アップロード


2000.2.11.

カサヴァント・オルガン 作品3786 披露演奏会
フレデリック・スワン(オルガン)
2月11日(金)、午後7時30分、タラハッシー、トリニティ・ユナイテッド・メソジスト教会

時間を間違えたために、8時に到着。しかしコンサート前半のメインである、バッハの「パッサカリアとフーガ」BWV. 582を聴くことができた。後半にも重厚なパッサカリアとフーガを使った作品があるためか、あるいはドイツ的な演奏法をあえて避けたのか、やや軽めのストップを使用。適度に装飾も加え、即興的ファンタジーといった趣の強い演奏。ヴァルヒャなどとは対照的である。しかし、その音色の選び方は面白く、フーガのクライマックスでは、カデンツァっぽく即興的な楽句も入り、こういうのがバロックの本来の姿なのだろうか、と考えさせられた。

後半はクープランやグリニーといった、フランス・バロック初期のオリガン小品のあと、賛美歌に即興演奏がなされた。「コンサートで知ってる曲があって良かったわ〜、って良く言われるんで」と会場を笑いに誘ったあと、「アメイジング・グレイス」をバグパイプ風の伴奏に乗せて提示。客席の雰囲気が和らぐ。ロマンティックな和声をふんだんに使い、終始うっとりとした感じの仕上げ。

最後はカナダのHealey Willan (1880-1968)による、「序奏、パッサカリアとフーガ」。作曲者はフランス語圏のカナダ人だそうだが、なるほどフランクをさらに現代的にしたような色濃い作品だ。この演奏に先立っても、一般の聴衆に親しみやすくスワンが曲を解説。事前に演奏時間も知らせておくのも、面白い試みである。パッサカリアやフーガの主題は半音階和声がかなり絡み付くので、主題として認知するのもなかなか難しいくらいだが、事前にバッハを知っているので、ある程度の形式感は掴める。

アンコールには賛美歌の一曲も会場全員で斉唱。伴奏には即興が加えられ、第3コーラスには、粋な転調が加えられているあたり、かなりこの辺りにはこなれているな、という印象を持った。

会場では、去年の12月に初めて演奏に使われ始めたという、カサヴァント・オルガンの設置についてのパンフレットが無料で配布されていた。興味深い情報に溢れている。このオルガンによるコンサート・シリーズも今年一杯続くようで、12月には、金管アンサンブルと合唱も加え、ジョン・ラターの「グローリア」が演奏される予定だ。


2000.2.10.

日本では、私が曲目解説を書いたN響コンサートが行われている。スラトキンがコープランドの第3交響曲を振ったもの。ニフティには、この曲を見直したというコメントがあって、ちょっとうれしくなる。

「コープランドの家」の芸術監督、マイケル・ボリスキンと電話で対話。「ExMusica」について説明。写真掲載の許可を得る。とても親切にいろいろなことを教えてくれて、感激。


2000.2.9.

今日は、来週のアメリカ音楽学会南部支部で行う口頭発表のリハーサル。同僚や先生を目の前に、最近やったことを20分にまとめて話す。オーバーヘッドを使うとき、原稿から目を離したため、言葉が急にしどろもどろになったり、原稿に戻る時に場所が分からなくなったり、問題があったけれど、反応はとても良く、ほっと一息。ゆっくり話すように言われたけど、内容については満足が得られたようだった。皆さん、どうもありがとう(ってここに書いても読めないか (^_^;;)。プリントの誤りも訂正しておかないと。ミルウォーキーってどう綴るんだっけ…。

他の学生では、オルフについて、ドイツ人の学生が発表。ドイツ語が最初からできるんなら、アメリカになんか来ないで〜、なんて嫉妬心一杯になってしまったりもするんだが、ギュンサシューレとかいう音楽と運動を結び付けたような、オイリュトミーみたいな感じのことを教える教育機関(?)についてだった。ドイツの名前がちょっと早口で聞き取りにくかったけど、私よりもずっとたくさんの内容を扱っていた。

民族音楽学の人は、ロシア系移民の音楽教育について。何ていう楽器だったかな、あれ(プリントを配るべきだ、とか楽器について説明してほしいなどの意見あり)。そして、最後は音楽史の学生が、エルンスト・フォン・ドホナーニのアメリカ移住の過程などについての話。うちの大学にもいたんだから、いろいろ資料があるようだ。FBIに、移民管理の資料があるんじゃない、という教授の一言。え、えふびぃ〜あい〜…、そういうところも活用すべきなのか(基本資料だよ、とのこと)! ウェブページもあるそうで、驚き!

発表に来てくれた人の一人で、バーバーの第1交響曲を修士論文で分析したという理論の学生と立ち話。私もバーバーが好きで、楽しく話しした。シェンカー理論はそのまま適用しなかったけど、それを応用したとのこと。Extended harmonyだからだそうだ。ハリス、ハンソン、ロレムなんかも当てはまるらしい。へえ〜。ハンソンなんか結構19世紀的なんだけどなぁ。

メモ
マイク→ラジオ、音を増幅、文化的文脈を拾って広める(増幅)。スティルとハーレム・ルネサンス。


2000.2.8.

フロリダ州立大学ウインド・オーケストラ
フロリダ州立大学、オッパーマン音楽ホール、午後8時

時間の都合で三曲のみを聴いた。

まずは、シュワントナーの「夕べの静けさ」。万華鏡のように変幻する色彩と、音楽が濃密になってきたときに打ち込まれるダイナミックなグラン・カッサ、ピアノを有効に使ったアルペジオ、ベルトーンで堆積してくる和音。いかにもシュワントナーだ。意地悪くいえば、いつも同じ語法で攻めてくるといえるのだが、私はそれが好きであるし、ある程度いつもの彼の音楽を期待している弱さがある。今回も打楽器が縦横に活躍。この曲は和音的にも、また微妙な音の変化にも対応するため、バランスのとり方が難しい曲だと思う。後半やや合奏の集中力に衰えが感じられなくもなかったが、しかし何とか持ちこたえ、緊張を持続させていた。また、打楽器に若干の傷もあったが、気にはならなかった。シャープなラズロー・モロシの指揮が手綱をきっちり引いていたのだろう。この作品の年代は分からないのだが、最近のミニマル的な手法も若干入っているようにも感じられた(その部分が、やや気が削がれてしまうところでもあったりするのだが)。ウインド・アンサンブルによる選り抜きのメンバーによる演奏は、充分満足のあるものであった。

2曲目は、イギリスのエドワード・グレグソンの「変容」。この作曲家の作品は今回初めて聴いた。ルトスラフスキが「ヴェニスの遊び」で使った、一定の時間内で、即興的に特定の音型を繰り返す手法を使い、独特の音響を作り出す。基本的には三部形式で書かれているようで、時にダイナミックに、特にこまやかに、メリハリの効いた音楽が聴かれる。面白かったのは後半、エコー装置を使ったフルートとクラリネットのソロ。会場にいた若い聴衆にも、思わず乗り出して音にみみを傾ける者がいて、興味を引いたことが伺えた。シュワントナーほどではないが、色彩への意識も強い作品であると思う。演奏は、若干消化不足の感もあったが、テクニック的な問題はあまり感じられなかった。

3曲目はカレル・フサのサキソフォン協奏曲(ジョナサン・バージェロン独奏)。3楽章形式の両端楽章はソロが冒頭を飾っている。今日聴いた3作品では、最も渋い音色を使っており、不協和な和声が終始曲の中で使われている。第1楽章はじっくりと盛り上がり、楽器が点のように音を加えてくるような箇所もある。第2楽章は、最後の徹底的なクライマックスまで緊張感の抜けない「オスティナート」と題された楽章。最終楽章では冒頭のソロで四分音が奏されるなど、新しい語法も注目される。

演奏は、やはり難解さもあるのだろうか、ややとりとめのなさを感じずにはいられなかった。ソロがどこで前面にでるべきなのか、あるいは、音楽の変わり目はどこなのか、どうすれば全体がスムーズにつながっていくのか、分からなかった。もちろん筆者がこの曲を初めて聴いたということもあり、責任を全部演奏者に押し付けるつもりはない。しかし、いわゆる「プラハの音楽1968」のような物語性は見えにくい音楽であるという印象はもったし、やはり学生の方も若干戸惑っているようにも感じられた。なお、3つ曲の中では一番大きな編成を使っていた。

全体的には良いメンバーが演奏に参加しており、テクニック的な不安がほとんど感じなかったのは素晴しい。また、常任の指揮者(フサを振ったジェームズ・クロフト)よりも、学生のアシスタントの方が、新しい曲に理解があるようような印象も持った。

聴かなかった曲は、コンサートの始めに全員で演奏されたウィドールのオルガンのための交響曲第5番からのトッカータ(編曲者はプログラムに言及されていない)、そして最後に演奏されたドナルド・グラサムの「私は踊りに出かけた」の2曲。

ある作曲家との対話

学生の運営するラジオ局、WVFSの日曜の夜10時から12時は、いわゆる実験音楽の番組。"Staring at the Sun"。たまたま聴いていたら、どこかのだっさ〜いおっさんがクジで小犬を当てるだの、これから一人旅に出かけるだの言ってるチープなレコード、エリヴィスばりのだっさ〜いロック、あと、もうジャンル問わずにコラージュする作品をやっていた。全篇がLP・EPの針トビ満載で、それがまた面白い。で、この作品は何だろう、というのを放送局に聞いてみた。1週間たって番組をやったホストから電話が来たが、どうやらそれは彼が自分で作った曲だったのだという。がらくたのようなレコードをどっかから拾ってきてはコラージュを作っているそうだ。気に入ったことを伝えるとCD-Rで売ってくれるという。これは嬉しい。その他、New Musicの話で1時間くらい電話で盛り上がり、すっかり楽しく過ごしてしまった。日本にも一度行ってみたいそうで(JETプログラムで、英語を教えたいのだとか)、そっちの話題にも触れる。作曲を正式に勉強したことはなく、美術学校でこういった音楽や、ビジュアル関係をやっているのだとか。う〜ん、音楽科にも、こういう面白い作曲の学生がいるといいのになぁ。


2000.2.7.

ウイーン国際ピアノ・デュオ
クラッシマ・ジョーダン、ウォルフガング・ワチンガー
フロリダ州立大学、ドホナーニ・リサイタル・ホール、午後8時

2時間にもわたる大プログラムの前半は、モーツァルトとシューベルトの4手ピアノ作品。モーツァルトのヘ長調、K. 497のソナタは、やはりモダンのピアノだと重く感じられてしまう。特にこの二人も軽めの響きを目指したようには思えなかったし、4手ともなると、どうしても重厚になってしまうようだ。しかし、緩徐楽章では、旋律の絡み合いをお互いに良く聴き合い、外声部ばかりに注目しがちなピアニストとは、一線を画したといえる。シューベルトの「2つの性格的行進曲」D. 886は、伴奏部により響きのある和音が付けられており、テンポも速いため、曲を支えるにしても大変なスタミナがいりそうな曲だ。ワチンガーはこれを難無く行い、ジョーダンはきらめくような、オクターブ重ねの、いかにもシューベルトらしい旋律美を品良く提示してみせた。

後半はショスタコーヴィチの2台ピアノの組曲で始まった。ジョーダンは、舞台前方にいたのと、彼女自身が大きく弾く傾向もあり、ややワチンガーの旋律が聴きづらくなった。それでも作品の緊迫感や、一方でユーモラスな性格が、はっきりと表現され、メリハリがついていた。最後の辺りは、やや勢いあまって強く弾きすぎた感もあったが、それが致命的に響かなかったのも、おそらく作品の表現にあっていたからなのかもしれない。最後はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からの3つの楽章(ヴィクター・バビンによる版)。ここでも、バランスの問題はあり、リハーサルの時に何か問題点として提起されなかったのだろうか、と多少疑問に感じたが、揺るぎないテクニックの確かさと、作品の構成をきっちり理解しての反応の良さが光っていた。

どのくらい共に演奏活動をしているのかは分からないのだが、かなりこなれた様子であり、4手やデュオで頻繁するズレが驚くほど少なかった。もちろんこれはドホナーニという中規模のホールで行われたということも関係しているのだろう。

これだけの演奏家なのに、どうやら宣伝がうまくなかったらしく、客の入りはいま一つだった。これは当大学にとって、非常に残念なことだ。アンコールはシューベルトのレントラーとビゼーの「子どもの遊び」からの一曲。


2000.1.26

ティム・ライス(民族音楽学、UCLA)来校
クルシュタイナー音楽棟ラウンジ

ポスト・モダン時代の民族音楽学研究のありかたについて、インフォーマルなディスカッションに参加した。これに先だって行われた講演では、そのポスト・モダン時代の音楽研究の三次元的モデルというのをライスが発表したようだった。その軸は、時間、使用法、コミュニティーというものだった。

ディスカッションはライスが簡単にこのモデルを説明したあと、自由な質問・応答という形になった。州立大のオルセン博士は、「これは誰のためのモデルなのか」という根本的な問題を提示。バカン博士はこれに加えて、結局一つのモデルに縛られるのは、問題であり、多様なアプローチが許されるポスト・モダンに新たなモデルを提示する意義とは、という疑問を投げかけた。おそらく、ライスのモデルは、出発点として有効であり、西洋の音楽研究で捉えるべき視点を与えてくれることは確かである。しかし、自分が他民族の音楽研究をする場合、自分が持ち込んだ(他民族からみて)「他人」のモデルが、どれだけ「他民族内部」の研究に有効なのかどうなのか、これはやはり重要な問題となるのだろう。モデルは便利だが、それに固執することによる弊害もあるということだ。もちろん、「他民族内部」に何もモデルなしに入っていくことで得られることも少ないのであり、「他人」のモデルでも「無いよりは良い」ということになるのかもしれない。しかし、モデルを固定化する必要もないし、そうすべきではないのだろう。

その他、「時間」が、単なる人工的な「時代区分」になっているところにも質問があり、それは、音楽史を勉強している側からも、考えされられる問題であった。


一覧に戻る
メインのページに戻る