2003年4月4日アップロード
ハイドン 交響曲第101番《時計》、第102番 ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ 英EMI Classics 5 55111 2
古楽器による演奏で最も明確な変化というのは、やはり使われている楽器によるものだ。楽譜の版よりも、おそらくこの音そのものの変化というのは、否定しようがないと思う。しかし、古楽の議論で問題とされるのは、むしろ演奏様式の問題ではないかと思う。
ノリントンがセンセーショナルだったのは、例えばベートーヴェンの第9交響曲の第4楽章、冒頭の低弦によるレチタティーヴォを楽譜通りに演奏してみたところ。これまでの演奏慣習との大きな違いに、ラジオでこれを聴いていた私はのけぞってしまった。当時この第九は、とんでもない珍演奏のような扱いで紹介されていたように記憶するのだが、考えてみればレチタティーヴォの様式で書かれた音楽をあれほどまでに非レチタティーヴォ風に演奏したというのは、やや行き過ぎのところがあったように思う(後期のピアノソナタにもレチタティーヴォが挿入されているのだから、別段第九だけが飛び抜けて例外という訳でもないだろうし)。それでもそれまで耳にしてきたこの第九の第四楽章が、本当に楽譜に「忠実」だったのかという問題提起としては、記憶に残るものであった。 さて、問題のハイドンの交響曲についてだが、楽譜や慣習の問題はともかく、古楽器全般については、テンポの速さというのが問題になると思う。おそらく楽器や演奏空間における残響の短さを配慮してのことなのかもしれないが、19世紀的オーケストラでは考えにくいほどのテンポになっていることは確かだと思う。 それと同時に、拍節の感じ方の違いも感ずる。おそらく舞踊音楽の影響なのかもしれないが、1拍目の振り下ろしのスピード感、そしてそれを緩やかに止揚するかのようなアゴーギクが、この作品の演奏にも感じられるように思う。そしてこの舞踊音楽的要素は、私が古楽演奏を好む特徴の一つでもあると思う。 しかしこの《時計》交響曲の第1楽章におけるスリリングな感覚は、そういった、体が自然に高揚してくる拍節感だけではなく、それと別に聞こえてくる直線的に迫ってくる要素ではないかと思う。特に再現部前のクレッシェンドなどは、散々主題を展開した後にその緊張を自然につないでいく手段として極めて有効で、ソナタ形式の再現部が凡庸な繰り返しではなく、楽章全体をまとめ、締める役割をしていることを見事に音楽として表現した結果ではないかと思う。 ノリントンのハイドンのCDは現在廃盤となっているようだが、《時計》や《軍隊》、《太鼓連打》、《ロンドン》など、一連の「ロンドン交響曲」の録音は、ぜひはやく市場に再登場することを願うものである。 |
クラシックにおいて、最近「歴史的録音」のブームが起こっている。そこで感じるのは、いわゆる「クラシックの巨匠地図」が塗り替えられつつあるのではないかということだ。本には言及されているのに、これまでほとんど音源のなかった演奏家たち、おなじみの巨匠たちの、お蔵入りになっていた音源の「最発見」、評論家たちの推してきた録音に対する懐疑。カラヤンだ、バーンスタインだと言っていた時期が遠い過去のように思えてくる。マイナーレーベルの進出や、モノラル時代の巨匠の再評価、ステレオ時代のライブ録音(海賊盤など)、異変があちこちで起こり始めているようだ。