最近見たもの、聴いたもの(59)


2003年4月4日アップロード


03.02.19.

マーラー 交響曲第2番 ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団 ドイツ・グラモフォン 471 451-2(シノーポリ マーラー全録音集)

仕上げが非常に丁寧な極上のマーラー。丁寧とは言っても、それは冷めているのではなく、慎重で、かなり神経質に表現が美しく統制されている。第1交響曲から比べると別人のようだ。

この作品に限らず、マーラーの交響曲は、その作風から必然的にコントラストをシャープに聴かせた演奏が多いと思うのだが、シノーポリの場合は、その(特にダイナミクスにおける)コントラストの両端にあるものが、羅列されるなることなく、カメラのレンズが被写体に向かってずっとフォーカスを合わせていくようにつながっていくようだ。あるいは細く強い息によってふぅ〜っと出てくる糸の束がやがて光を輝かせて行くといった印象か。第5楽章だけでも、量的・質的にもかなりの内容の楽想を整理整頓して聴かせなければいけないのだが、極めてスムーズに音が織り込まれていくので、こちらの方も、つい聴きいってしまう。

シノーポリの解釈そのものは、これまでの因習を打破するところもあって、それが人によっては作為的に、あるいは異端として聴こえる可能性が充分にある。しかし、説得力の大きさは計り知れないものがある。

03.2.27.

マーラー 交響曲第2番 ロリン・マゼール指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団ほか 米CBS Masterworks M2K 38667

録音のせいでもあるのだろうが、響きが小さくまとまった、室内楽的なマーラーという印象。ところどころに異常なほどの粘りがあったり、ゆったりとしたテンポ配分があったり。決して悪い演奏とは思わないが、おそらく好みが分かれるのではないかと思う。


03.3.29.

ハイドン 交響曲第101番《時計》、第102番 ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ 英EMI Classics 5 55111 2

ノリントン/ハイドン/Sym101+102
古楽器による演奏で最も明確な変化というのは、やはり使われている楽器によるものだ。楽譜の版よりも、おそらくこの音そのものの変化というのは、否定しようがないと思う。しかし、古楽の議論で問題とされるのは、むしろ演奏様式の問題ではないかと思う。

ノリントンがセンセーショナルだったのは、例えばベートーヴェンの第9交響曲の第4楽章、冒頭の低弦によるレチタティーヴォを楽譜通りに演奏してみたところ。これまでの演奏慣習との大きな違いに、ラジオでこれを聴いていた私はのけぞってしまった。当時この第九は、とんでもない珍演奏のような扱いで紹介されていたように記憶するのだが、考えてみればレチタティーヴォの様式で書かれた音楽をあれほどまでに非レチタティーヴォ風に演奏したというのは、やや行き過ぎのところがあったように思う(後期のピアノソナタにもレチタティーヴォが挿入されているのだから、別段第九だけが飛び抜けて例外という訳でもないだろうし)。それでもそれまで耳にしてきたこの第九の第四楽章が、本当に楽譜に「忠実」だったのかという問題提起としては、記憶に残るものであった。

さて、問題のハイドンの交響曲についてだが、楽譜や慣習の問題はともかく、古楽器全般については、テンポの速さというのが問題になると思う。おそらく楽器や演奏空間における残響の短さを配慮してのことなのかもしれないが、19世紀的オーケストラでは考えにくいほどのテンポになっていることは確かだと思う。

それと同時に、拍節の感じ方の違いも感ずる。おそらく舞踊音楽の影響なのかもしれないが、1拍目の振り下ろしのスピード感、そしてそれを緩やかに止揚するかのようなアゴーギクが、この作品の演奏にも感じられるように思う。そしてこの舞踊音楽的要素は、私が古楽演奏を好む特徴の一つでもあると思う。

しかしこの《時計》交響曲の第1楽章におけるスリリングな感覚は、そういった、体が自然に高揚してくる拍節感だけではなく、それと別に聞こえてくる直線的に迫ってくる要素ではないかと思う。特に再現部前のクレッシェンドなどは、散々主題を展開した後にその緊張を自然につないでいく手段として極めて有効で、ソナタ形式の再現部が凡庸な繰り返しではなく、楽章全体をまとめ、締める役割をしていることを見事に音楽として表現した結果ではないかと思う。

ノリントンのハイドンのCDは現在廃盤となっているようだが、《時計》や《軍隊》、《太鼓連打》、《ロンドン》など、一連の「ロンドン交響曲」の録音は、ぜひはやく市場に再登場することを願うものである。


03.4.3.

クラシックにおいて、最近「歴史的録音」のブームが起こっている。そこで感じるのは、いわゆる「クラシックの巨匠地図」が塗り替えられつつあるのではないかということだ。本には言及されているのに、これまでほとんど音源のなかった演奏家たち、おなじみの巨匠たちの、お蔵入りになっていた音源の「最発見」、評論家たちの推してきた録音に対する懐疑。カラヤンだ、バーンスタインだと言っていた時期が遠い過去のように思えてくる。マイナーレーベルの進出や、モノラル時代の巨匠の再評価、ステレオ時代のライブ録音(海賊盤など)、異変があちこちで起こり始めているようだ。


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