最近見たもの、聴いたもの(58)


2003年2月17日アップロード


02.12.18.

グリーグ ピアノ協奏曲イ短調作品16 アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)、ラファエル・フルーベック・デ・ブルゴス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 英BBC Music BBCL 4043 2

record jacket
1965年6月17日、ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのライブ録音。これまで私は、甘美な旋律を持ったピアノ協奏曲の名曲、くらいのイメージでこの作品に触れてきたと思う。しかしこの緊迫感の持続は何だろう、確固としたテクニックに裏打ちされた油断のない表現力と色彩感。こんなにピアノが華やかに聴かせることのできる作品だったのか。

こういった「文句なしの名演」というのは、聴くだけでも相当神経を使ってしまい、自分が音楽を実際にどのように体験しているのかを客観的に見るのが難しい(おそらくもう一度CDを聴くべきなのだろう)。 しかし考えられるのは、ミケランジェリの、ため息のでるような繊細なテクニックや音色がいつもの通りそこにあるのに加え、表に出るべきところは大胆に聞かせられるところ。そして、オーケストラもピアノを支えるだけでなく、音楽作品の表現として一体となっていることなどだろうか。

録音のせいか、緩徐楽章などはピアノの弱音表現が強めに聴こえるが、それを差し引いても、一度は聴いてほしい貴重な録音だと思う。なお録音はモノラル。併録のドビュッシー/前奏曲第1巻(1982年4月13日)はステレオである。

02.12.20.
掲示板にコンサートについての投稿があったので、こちらに転載しておく。

盲導犬の集いについてのご紹介です。
 投稿者:串田誠一  投稿日:12月20日(金)22時41分10秒

盲導犬についての講演とピアノのコンサートがあります。
平成15年2月8日 午後1時30分〜
横浜教育文化ホール
神奈川県後援
入場料1000円。収益金は盲導犬の団体に寄付されます。
ご希望の方は串田誠一まで(045−212−3327)

03.01.30.

Vladimir Horowitz: The Indispensable 米RCA Victor 74321 63471 2

2枚組のこのオムニバス・アルバムでホロヴィッツを改めて聴いてみると、彼は、特にコンサートでは、ミスタッチを気にすることなく大胆に弾いているものだと感心する。あるいは逆に、現代の我々がそういったミスに対して過敏になるあまり、音楽の大局を見失ってしまったということなのであろうか。ピアニストとして「勝負に出る」ためのテクニックというのはどういうものであるかについて、考えずにはおられない。


03.02.12.

ブルックナー 第8交響曲ハ短調 ズビン・メータ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団
 米London CSA 2237(LP)

オーケストラ、特に金管が朗々と骨太に鳴る演奏。弦楽器の音もつややかで、艶(なまめ)かしい。ブルックナーは老齢指揮者がやるものというイメージで考えると、これはかなり若々しく、元気のよい演奏といえるのかもしれない。でもブルックナーが時代的にワーグナーと近かったということを考えると、むしろこれは解釈としては「あり得る」という印象も持った。むしろ、ブルックナーを「交響曲作家」ということで、あるいは彼のカトリック性からの類推で、同時代性を感じさせない、あるいはワーグナーとは全く別の存在のように感じさせる解釈の方が広く流布しているのではないかいう勘ぐりさえ起こってくる。第3楽章のフォルテシモの部分などは、マーラーといった響きでもある。

メータの演奏は、オーケストラが一体となって進むところが大いに共感できる。潔い音の立ち上がりは爽快でもある。しかし一方で、ドイツの指揮者たちに見られる、切り込みの良さが恋しくなったり、細身な部分が欲しくなったりするのも事実。第2楽章のトリオの部分など、もっとオーケストラの音にざっくりとした変化があっても良いように思えるし、その他の部分にしても、対位法的な展開の時に、どうしても旋律のどちらか一方にスポットが当てられがちになってしまう弱さがあるようだ。後半楽章も、前半楽章ほどスリリングではないように思う。

しかし、私個人としては、この演奏におけるスケール大きさや迫力には大いに感心したし、オーケストラの機能を存分に使った解釈の一つとして、知っておいて損ではなかったと思う。面白い演奏だ。

レコードの解説書は、マーラーの10番交響曲の補作で知られる、クックによるもの。譜例を11も使った、動機を中心とした解説のようだ。

03.02.16.

マーラー 交響曲第5番 ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団 ドイツ・グラモフォン 471 451-2(シノーポリ マーラー全録音集)

シノーポリの音楽には「解剖学的」という評価があるそうだが、私の印象とはちょっと違う。おそらくその「解剖学的」というのは、彼の医学のバックグラウンドから来た評価なのだろうが、そこからブーレーズみたいな、スケルトン的なものを類推してはいけないように思う。

この第5は、第2楽章以降が特に良い出来だと思うが、どちらかというと、一丸となって迫ってくるオーケストラの感情を揺さぶる力とか、少ない色彩の中で、いろんな動機や旋律がきれいに浮かび上がってくるところがなんとも言えない魅力ではないかと思う。音響としては、むしろ混ざり気が多く、淀んだ部分さえあるので、おそらくブーレーズを先に聴いてしまったのならば、その部分に不満が出てくる可能性がある。

マーラーのように、作品のオーケストレーションが豪華になると、自然に「色彩」という考え方をしたくなるのだが、シノーポリの場合は、逆にそれを抑えて奇麗に均質化しながら、確実なスコアの読みから絞り出されたうまみを引き出しているような気がする。

凝縮の美。ワルターの頃からみると、一皮も二皮も剥けた(ひねた)音楽だ。

03.02.17.

マーラー 交響曲第1番 ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団 ドイツ・グラモフォン 471 451-2(シノーポリ マーラー全録音集)

昨日聴いた第5に比較して、第1交響曲は、まずコンセプトがしっかり出来てないうちに演奏したという印象が拭いきれなかった。オーケストラの反応は確かだし、テクニックにも不安がないのだが、音楽に迷いのようなものを感ずるからだ。

また、私の耳の記憶というのだろうか、第1交響曲はこういう感じの動機が出てきて、どういう風にドラマが進んでいくのをある程度体で覚えているところがあるものだから、それと違った聴かせ方をさせられると、ひどく気になってしまうのである。もちろんスコアと音とを照らし合わせないと、シノーポリの「忠実度」というのは分からない訳だけど、やっぱりいつもと違う鳴らせ方をすると、そこにそれだけのことをやる意味を求めてしまうところがある。特に第4楽章などに、そういうところがあって、「なぜそんな出し方にするのか?」「なぜそんなテンポ設定なのか?」と問いかけをせずにはいられなくなり、落ち着いて聴けなくなってくる。

おそらく第5なんかにもそういう「あれっ?」という箇所はあったと思うのだが、第5の場合はそれほど疑問を感ずることなく、むしろ新鮮味を覚えた。おそらく第1の場合は、彼なりの独自路線というものが、やはり未消化であるがために、中途半端で、燃焼し切れてないところがあるのかもしれない。可能性は充分見えてくるだけに、残念ではある。

ところで新鮮といえば、ブルーノ・ワルター/ニューヨーク・フィルのブラームス/第2交響曲。モノラル時代だけど、フィナーレの畳み掛けがすごく過激だ。第1にも似たような傾向があるが、ワルターのニューヨーク時代というのは、一旦走り出すと、止まらないようなところがある。しかしよく聴いてみると、実際そこにはワルターの注意深いコントロールもある。そうでなければ、突っ走ったままのエンディングになるだろう。つまりあのラストの着地までの軽いリタルタンドなど、頭の中だけでなく、体からでる音楽表現として消化されていることが感じられる。だからあれだけ興奮しても、アンサンブルが散り乱れることはないのだと思う。そういえばEMIのGreat Conductors of the 20th Centuryに、このブラ2が入ってるみたいだ(私の聴いたのは米Odyssey LPによる全集)。

一覧に戻る
メインのページに戻る