最近見たもの、聴いたもの(57)


2002年12月12日アップロード


02.11.9.

マーラー 交響曲第5番 ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 米Odyssey 32 26 0016(LP)

ワルターは、マーラーと親交があり、交響曲のすぐれた解釈もすっかり有名だが、全曲を録音した訳でもないようだ。たしかにSPの時代に、すでに古典と化した名曲ならいざ知らず、同時代の、それも必ずしも受け入れが芳しくない新曲を録音するというのは、大変なリスクとなったに違いない(現状を予測したのは、マーラー自身の他にどこくらいいたのだろう?)。しかし、残っている録音はせっかくだからいろいろと聴いてみたいと思い、今回は第5交響曲を選んでみた(残念ながら第2交響曲は図書館にない)。古い演奏だから、さぞかしオーケストラは苦心しているのだろうなという偏見を持ちながら。

しかしその偏見は、演奏を聴いているうちに見事に消え去ることになった。逆にニューヨーク・フィルの技術の確かさに感心したくらいだ。そのうちバーンスタインの旧録も聴いてみなければならないな。大丈夫だろうか。

現代の演奏と違うと感ずるのは、やはり弦楽器の豊かさだろうか。また、迫力のある割には、比較的スムーズに音楽が繋がっていることもある。極端から極端へ、コントラストをぎらぎら利かせた近年の緒録音とは一線を画しているようにも思う。もっとも70年代に録音したショルティ/シカゴ響も嫌いではないのだが。

(02.12.12.追記)ところでワルターのマーラーといえば英Dutton Laboratoriesからリリースされた、ウイーン・フィル1938年録音の第9交響曲も聴いてみた。以前EMIの盤では聴いたと思ったが、Duttonのは会場の雰囲気が気持ち良く伝わってくる復刻だと思う。また、この演奏も、実に自然体で臨まれていて、特に弦楽器の美しさが魅力的だ。もしかすると、最近のいろんな演奏からすると、ワルターのはやけにデフォルメの少ない演奏のように感じられるのかもしれないが、だからこそ嫌みなところがなく(グロテスクさを強調しすぎるリスクが少なく)、繰り返しの聴取にも耐えられるものがあるように感じられた。

バーンスタイン/ベルリン・フィルの有名なライブの録音などは、これとはおおよそ対照的な存在になると思う。しかしあの録音ほどベルリン・フィルがもがいている演奏というのを、私は知らない。オケのテクニックだけを取ると「これがあのベルリンか?」と思われるリスナーがいても不思議ではないだろう。

でもあれもやっぱり私にとっては魅力的な演奏だ。一筆書きでやり直しの聴かない瞬間が有無を言わさぬリードで進んでいくのには、自己没入していくバーンスタインの音楽スタイルがそのままむき出しになっていることもあって(もちろん彼は客観的に聴く耳は持っていたと思う)、つい引き込まれてしまうのだ。


モーツァルト シンフォニア・コンチェルタンテ変ホ長調 K. 364. ヴォルター・バリリ(ヴァイオリン)、ポール・ドクター(ヴィオラ)、フェリックス・プロハスカ指揮ウイーン国立歌劇場管弦楽団 米Westminster WL 5107(LP)

私はこれまで「『名手たちの夢の共演』というのが、せいぜいこういった作品に残された運命なのだろうか」と漠然と考えてきた。しかし実際はこの録音にあるように、もっとスリリングな音楽体験が可能だと知った。「気の抜けない演奏」ということも可能だろうけれど。古楽器でもこのような熱のこもった演奏は可能だと思う。


02.11.10.

富山市役所発行(北日本新聞社編集)の富山市ふるさとメール第27号によると、11月9日(土)・10日(日)、富山市民芸術創造センターにて、桐朋学園富山キャンパスの学生、富大フィル、富山シティフィルなどによる《交響詩立山》演奏会があり、『交響詩立山』映画上映会まであったとのこと。しかも無料の入場料。行けなくてグヤジイ。黛敏郎の作品なのだが、まだ聴いたことがないのだ。


02.12.10.

地元のラジオ98.9では、クリスマスの音楽を24時間ぶっ続けに流している。よくネタが続くものだと感心する。もちろんクリスマス・ソングの数には限りがあるから、どうしても違ったカバーで攻めなければならないが、それにしてもこれまで毎年数多くのクリスマス・ディスクがリリースされてきたのだなあと再び感心。もっとも今日教会の牧師さんから届いた電子メールによると、「頭がおかしくなりそうだ」とのこと (^_^)

クリスマスというと、日本ではケーキかロマンスかということになってしまうようだが、どちらかというと、こちらは家族のだんらんとプレゼントといった感じか。前にも書いたと思うのだが、雰囲気的にはお正月に近い。親元を離れ、家族とクリスマスを送れない学生は、しばしば家族で行われるクリスマスの食事に招待されることがある。感謝祭とクリスマスというと、私もおじゃまさせていただいたことがあり、いつも申し訳ないくらいおいしい食事をいただいている。


02.12.11.

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ヴァン・クライバーン(ピアノ)、キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー 米RCA Victor 6209-2-RC

1958年5月19日、カーネギー・ホールでのライブ録音。音がデッドだが、クライバーンのタッチの明確さが良く分かる。この曲は、特に第3楽章など、勢いに乗せて走り抜けるような演奏が多いし、聴く方もその興奮を期待しているようなところがあるような気がする。自演盤なども、エンディングが近付くにつれて自然につんのめって行くところさえある。

そういったものを求めると、この演奏は、若干物足りないものがあるようにも思えた。しかし、打鍵をしっかりし、その中で類い稀なる情感を演出する解釈と考えれば、これはこれで効果的な演奏に違いない。演奏スタイルの多様性を知るには参考となる音源だと思う。これはクライバーンがチャイコフスキー・コンクールで優勝してからそれほど日の経ってないコンサートからの録音と聞くが、コンクール当日もこんなに落ち着いた演奏だったのだろうか。もしもそうだったのであれば、それも驚異的といえる。
02.12.12.

以前友人のピアニストとクラシックのレコードについて討論することがあった。最近録音といえば、何度も録り直して、完璧なものをつくるように継ぎはぎするのが通常になりつつある、という発言を私がしたところ、「本物の音楽家はそういうことをしない。」と返されたのだった。確かに音楽の作られたもともとの文脈なり、録音したときの楽想の流れなど、つなぎあわせることによって起きる不自然感はあるのだろう。

しかし一方で、レコードを完成した音楽商品と見る人もある。そこでは失敗などがすべて取り除かれた、完璧なものが欲しいとする考え方もあるようだ。「愛好家」にそういう人がいても不思議ではないのだが、という風にその友人に返したところ、「そんな音楽の分からない人は私は相手にしない」という答えが返ってきた。ちゃんとした音楽家なら、違うテイクのものをつなぐなどというのは、とんでもないことのようだ。

もちろんこれは、立場の分かれる問題ではあるだろう。実は私はFMのライブ放送からクラシックに入ったので、大きなミスを世界的に有名なオーケストラがすることも知っている。そして私個人としては、こういうミスはむしろ人間的な感じがするし、好きであったりする。ここのところ海賊盤が日本で流行しているそうだが、やはり商業録音にならないところで、随分面白い音楽のあることが体験されているのではないかと思う。

現実にはどんなに素晴らしい演奏をライブで体験したとしても、それを保存しておくことはできない。人間の脳は、コンピュータのハードディスクが音声ファイルを記録しておくように音を記録することはできないのである。だからこそ、生の一発勝負はある意味面白いのかもしれない。複製がスタンダードとなっているポピュラー音楽との垣根は近年CDの音質とともになくなりつつあるようにも思うが、やはりクラシックの「生信仰」はしばらくなくならないような気がする。


CDの問題は、おそらくその聴取が一回で終わらない可能性が高いということだろう。特にお金がない時ならば、同じCDをむさぼるように何度も聴いてみたくなるものだし、何度聴いても新鮮な感動を与えてくれる演奏は、やはり存在する。そして何度も聴くうちに、だんだんと細部が気になってくる。ライブ録音ならば、曲のどの部分で客席から咳が出るかまでを、どの奏者がどこでひっくり返るかまでを覚えてしまう。知っている曲ならばいいが、もしも初めて聴く音源なら、唯一の音源ならば(特に20世紀音楽など)どうするのか。楽譜とCDの音を比較できる幸運な人はいいのだが。さらに作品研究に録音を参照するにはどうするのか(もちろんこれは楽譜上の誤りの問題だけでなくて、演奏の質そのものが作品の好き嫌いにつながるから、余計恐ろしいのだが)。

結局はライブなりスタジオ録音なり、複製音楽にはそれなりの意義もあることを認めざるを得ないことになってしまうのだが、それはきっと用途の問題であり、その音源に対する接し方で変わってくる問題なのかもしれない。



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