最近見たもの、聴いたもの(53)


2002年5月29日アップロード


02.5.24.

ストラヴィンスキー 春の祭典 エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団 米London STS 16265(LP)

今どきの学生オーケストラも演奏する《ハルサイ》だが、アンセルメのころは、さぞかし大変だったのだろうな、と想像するばかり。今となっては、この演奏はちょっと心もとない。また、彼のフランス物に比べると案外モノクロームにも響く。でも、演奏史の記録としての価値はあるのかもしれない。アンセルメはアンセルメなりに、旋律やフレーズ絡み方は見えているのだが、最近の演奏ではあまり注目されない、あまり重要とも思えない旋律・フレーズのが前面に出てくると、何かが違って聞こえてしまう。また、オーケストラの技術はあるのかもしれないが、楽譜を完全に消化しきれてないのが露呈してしまっているのも悲しい。裏面の《ミューズをつかさどるアポロ》は、新古典だからなのか、割と安心して聴ける。ちょっと重めかもしれないが。

チャイコフスキー 交響曲第5番 ピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団 米RCA Victor LSC-2239(LP)

第1楽章は、何となく息が詰まってくるような、落ち着きのなさが気になった。この楽章以外でも、そうなってしまう傾向はあるようだ。長い指揮棒を使って細かい手の動きでコントロールしているからなのだろうか。しかし堂々と落ち着いた箇所もあり、その変わり様に、はらはらさせられる。

チャイコフスキーの第5にはいろんな演奏法があるように思うが、どれも何となく納得して聴けてしまうようなところがある。このモントゥーの演奏も、フレージングに不思議な息遣いを感ずる、特徴のある演奏だと思う(モントゥーのアプローチは「オーソドックス」だという評論家もいるようだが)。ボストン交響楽団の方は必ずしも最良のアンサンブルにはなっていないが、モントゥーの意図した聴かせどころを理解しているようには聞こえる。


02.5.25.

ハイドン 交響曲100番ト長調《軍隊》、交響曲102番変ロ長調 オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 米Angel S36364(LP)

高らかになるティンパニー、轟々(ごうごう)と響く低弦。古き良き時代の古典派音楽。オケの音はハイドンよりベートーヴェンに近い。しかし真摯に楽譜に向かい合っている演奏だとはいえる。2曲のうちでは、102番の方により生命力があるようには思うが。

それにしても、今日このような大オーケストラによるハイドンというのは、実にやりにくくなった。もちろん作曲者が考えていたオーケストラの響きを尊重するからこその結末なのであるが、古くからこういったスタイルの演奏に慣れ親しんでいる人は、いわゆる古楽や古楽風の演奏に違和感を覚えるのかもしれない。私はどちらかというと、ピリオド楽器の響きが好きで、ほとんど抵抗もないのだが、ピリオド楽器の場合は、音の減衰の仕方がすでに違うし、ビブラートを派手にきかせられない分、テンポを落とすのも難しくなるように思う。結局そのことが音楽表現の変化にもつながっていくのだろう。

時々思うのだが、なぜ今どきのオーケストラは、古楽器を一式揃えたりしないのだろうか? 基本的に楽器は奏者持ちということなのだろうが、古楽器と合わせて2つ持つというのも大変だと思うし、レパートリーによって楽器が変わるというのも考えるべきではないかとも思う。財政的にそれは難しいということもあるのだろうが、どこかのオーケストラがやってくれないものだろうか。楽器を持っている人たちが少ないため、ピリオド楽器が特定の地域でしか聴かれないということになっているように思う。あるいは専門にやるオーケストラがもっと増えるべきなのだろうか?


02.5.26.

クナッパーツブッシュ/バイロイト1955年の《さまよえるオランダ人》(米Music & Arts CD-319)をBGMにする。私はそれほどこの指揮者の録音を聴いた訳ではないが、《ワルキューレ》第1幕のスタジオ録音(英Decca)といい、このライブ録音といい、どうしてこんなに歌い手が・オーケストラが気持ちよく歌い鳴り響くのか、全く不思議でしょうがない。リハーサルはあまりせず、演奏家たちがすでに自らのレパートリーとしている作品を中心に取り上げていたということも指摘されているけれど、そうするとクナッパーツブッシュというのは、よほどその演奏家たちから最良の音楽を引き出すのがうまかったのだろう。

もちろんリハーサル以外のこと、たとえばクナッパーツブッシュがレパートリーを熟知していたことは充分考えられる(それは必ずしも知的な分析とか完璧な暗譜とかいうことではないが)。いくら即興性を大切にするにせよ、その即興をうまく進めるには、それなりの基礎や準備が必要だからだ。ワーグナーやブルックナーのような大作ならばなおさらのこと。通して演奏するだけでも大変だろうし。伝説的なエピソードに書かれていないところに、何か秘密があるように思うのだが。そうでないと、この演奏に見られるように、要の部分でオケがしっかり鳴ることなど考えられない。

オーケストラ・ビルダーが行うことと、それを通りこしたところで指揮者がするべきことの違い…があるのかもしれない。彼の才能が、特に後者に結びついているのだろう。

しかし私の疑問は深まるばかり。なぜこんな演奏が少ないリハーサルでできるのか。もっと彼の音源に触れてみなければならないな。CD3枚目に収録されている1956年の《神々の黄昏》からの抜粋も、歌手を含め、全曲を聴きたくなるような演奏だ。プロモーションとしては成功しているように思う(少なくとも私にとっては)。

続いてバルトークの合唱曲集 Aurel Tillai指揮Pecs室内合唱団(英Somm Recordings SOMMCD 216)。バルトークの中期作品というのはコアな音楽ではあるが、私は時々抵抗感を持つことがある。このCDに収められているのは、1917、30、31年の作品だが、これらは割とすんなり耳に入ってくる。こういうのを聴くと、コダーイとの距離の近さを感ずるし、幅広く中央・東ヨーロッパの合唱団の声に入り込めるような気がする。しかしいざ歌うとなると、コダーイの《ミサ・ブレヴィス》のような作品ならともかく、ハンガリー語の歌詞というのは壁になるだろうなあ。日本はアマチュアの合唱も盛んだが、こういうバルトークの作品ももっと歌われるようになるとうれしい。


02.5.27.

昨日クナッパーツブッシュ/バイロイト1956年の《神々の黄昏》の幕切れ部分を聴いたが、その部分を手持ちのショルティ全曲盤と比較してみる。…これは困った。クナッパーツブッシュのほうがずっと面白い…。もちろんここで一番の聴かせどころは、音域の上下にかかわらず豊かな声を聴かせるアストリッド・ヴァルナイのブリュンヒルデの熱唱。しかし次から次へと歌が湧き出てくるオーケストラもすごい。楽器部のバランスも、音色の微妙な陰影もある。ショルティ盤の方がどう考えても一生懸命演奏しているように聞こえるのだが、すんなりドラマに集中できるのは、圧倒的にクナッパーツブッシュの方。テンポはショルティ盤より速いのだが、音楽が自然に流れて繋がっていくのもクナ盤。これに比べれば、ショルティは分裂しそうだが、なんとか進んでいるようにさえ聞こえる。オケの機能性ではウイーン・フィルかもしれないが…(録音を比べるのはやめておく)。1956年にはこんなワーグナーを生で聴けたとは、本当にうらやましい…。

続いては気分を変えて、ジャック・イベールの、室内管弦楽のための作品を集めたCDを聴く。Ensemble Instrumental Jean-Walter Audoliの演奏(仏Arion ARN 68117)。組曲《寄港地》の他はあまりなじみのないイベールなのだが、内容は第二時大戦前後に書かれたもののようだ。聴いた限りでは新古典だが、シニカルさはあまりなく、むしろ忠実に古典的様式(18世紀風の軽やかさ)に帰る内容。オーボエと弦楽オーケストラのための《サンフォニー・コンセルタンテ》のフィナーレにはフーガも顔を見せる。ただし無調音楽の影響はやはりあるようだ。Suite Symphonique "Paris"の冒頭なんかは、特にそれが感じられる(この曲の場合は、シニシズムもある)。その他の収録作品は、Capriccio、Le Jardinier de Samos。それにしても、公立図書館のCDはひどく傷んでいるなあ。

ところでフランス音楽を語る時に「エクリチュール」(書法?)という言葉が用いられるようだが、これはどのような音楽語法を述べる時に使われるのだろう?


02.5.28.

《神々の黄昏》幕切れを、さらに57年バイロイトと比較。同じ独唱者指揮者なのに、結構違う。スムーズさやブリュンヒルデでは56年の方が好き。録音はこの57年(Golden Melodram盤)の方が切れ味が良い。

でもすっかりクナッパーツブッシュのワーグナーにハマりそうで恐い。でもワーグナー以外の彼の演奏についてはまだそれほど知らないので「信者」にはなれないと思う。ウエストミンスターのブルックナー8番も私にはイマ一つだし。

それにしても、どうしてウチの学校の図書館には57年バイロイト音源が2つもあるのだろう(もう一セットはMusic & Arts盤)? この年の演奏に特別な趣味を持つ教師でもいるのだろうか? ステレオ録音で《リング》チクルスはショルティ盤しかないのに(しかもこれは私も持っている)。

(02.6.1.追記:LPならもう何種類かあるようだ。またモノラルCDではフルトヴェングラーのがある)

ところでワーグナーはステレオでないとダメかな、と思っていたが、案外Golden Melodramのような音質の良いモノラルなら大丈夫のようだ。ライブのFM放送で育った私にとっては舞台上のノイズも生々しいものとして聞こえてくるし(ちなみにCDの製造元?はクロアチアなのだが、日本語解説もついている。親切だなあ (^_^;;;;;;)。

またワーグナーというと、なんとなく「スペクタクル」という言葉が浮かんできそうだったのだが、そういう段階も越えなければならないと思う。

いかん、とても《指輪》などを聴く時間がない。困った…。


02.5.28.

最近Bordersという、地元で唯一まともなクラシックのセレクションのある店にいってCDを眺めていたら、EMIがオーディオの音のみを収録したDVDをたくさん出しているのに気付いた。確かにDVDだと音が良くなるのかもしれないな、と思いながらも内容が旧譜ばかりなのが不思議だった。なぜそんな古い音源をわざわざDVDにするのだろう。昨晩、雑誌『Fanfare』(5/6月号)所収のアンドリュー・クイントの記事を見て、その理由がようやく分かった。DVDの5チャンネル再生の機能を使って、かつて4チャンネル用に録音された音源をこれで聴こうという訳だ。DVDに焼くこと自体にはそれほどコストがかからないし、4チャンネルで録音した貴重な音源も蘇るし、面白い試みだと思う

4チャンネルといえば、レコード会社がいろいろな方式を考えだしてフォーマットの統一がなされないうちに自然に消滅してしまった感じがある。スピーカーのセッティングも大変だったということも聞いている。クイントが警戒するように、今回もDVDオーディオがSACDの4チャンネル再生と競争するようになって、かつての4チャンネルのように分裂消滅しなければよいのだが。

一方、この記事が指摘しているように、クラシックの場合は、音が聴き手の前後から出ることはあまり重要ではなくて、どちらかというと臨場感の豊かさがウリのようだ。なるほどホールの反射音などが、よりよく収録されるということか(クイントは例外としてベルリオーズの《レクイエム》を挙げている。20世紀音楽ならもっとある)。ラインナップされた音源の中ではプレヴィン/ロンドン響の《惑星》、メシアン《トゥーランガリラ交響曲》、ウォルトンの《ベルシャザールの饗宴》などが面白そうである。

なお、かつての4チャンネルLPも中古では入手可能なようだ。しかし数が少ないからか、かなり高価。これからもっとDVDで発売されると、人気がでるのかも。個人的には湯浅譲二電子音楽作品集なんか出ると、すぐ買いそう。でも、DVD再生装置がいまこのPowerBookしかないなあ (^_^;;


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