最近見たもの、聴いたもの(52)


2002年5月10日アップロード


02.5.18.

アーノルド・バックス 交響曲第4番 ブライアン・トムソン指揮ウルスター管弦楽団 英Chandos CHAN 8312

20世紀も1930年代。メインストリームの音楽史では、19世紀型の交響曲はほとんど書かれなくなっていたが、イギリスやアメリカでは、ロマン派的な交響曲が大量に書かれている。それは単純に、これらの国々が「後進国」であったから、と説明できるものではないと思う(いや、アメリカの場合はそうなのかもしれないが)。バックスの交響曲は確かに19世紀的な機能和声に基づいている。しかしやはりこれは20世紀の産物だと思う。3つの楽章にしても、おのおのの楽章がかなり雑多な楽想を抱えながら、それでいて完結した世界を持っている。最終楽章にしても、ハイドンやモーツァルト風のメヌエットではない。実は第4交響曲の後には《Tintagel》という交響詩も収録されているのだが、楽想の流れとしてあまりに自然なので、もっと気楽に聞き流していたら、どこまでが交響曲だったのか分からなかったかもしれない。オーケストレーションの技術にしても、19世紀の遺産を幅広く取り入れながらも、一方でエルガーに通じる英国のクラシックの伝統も感じさせる。

イギリス音楽には、日本人にはやや理解しにくいリリシズムがあり、それがブリテンの音楽がアメリカではずっと受けいられる要因になっている、と私の学部時代の恩師が言っていたが、このバックスにも同じようなリリシズムが脈々としているように思う。それは日本で語られるような「精神性」の範疇ではうまく収めきれない性格のものであり、心と耳の切り替えをしないと本質がつかめないのではないかと思う。

かつてロンドン交響楽団でサミュエル・バーバーの交響楽団の第1交響曲を聴いたとき、イギリス系のオーケストラの、特に管楽器の暑い響きが受け入れられなかったのだが、こういうバックスの作品だと、おそらく涼しさを感じる部分が長くあって、それがオケの響きとうまくブレンドしているのではないかと考えるようになった。

バックスといえば、昨日聴いた《Mater Ora Filium》という合唱曲も気に入った(フィンジ合唱団の音盤)。歌い手にはずいぶん酷な作品なのだろうけれど、信仰の自然な吐露がなされているように思う。今後もバックスに注目していきたいところだ。


02.5.19.

バッハ マニフィカトBWV 243、カンタータ第80番《われらが神は堅き砦》 フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮シャペル・ロワイヤル 仏ハルモニア・ムンディ HMC901.326

今にも楽譜から音符が立ち上がってくるような、そんな生命力を感じる演奏。随分前に買ったCDだが(当時ヘレヴェッヘを知る人はほとんどいなかったと思う)、今でもその新鮮さは変わらない。カンタータ第80番はリヒター盤も聴いていて、そちらはフィッシャー=ディースカウなどの名歌手を揃えていて時々聴いてきたが、このアプローチも見逃せない。リヒター盤との一番の違いは、ヘレヴェッヘ盤の器楽合奏ならびに歌手のノン・ビブラートの奏法・唱法が醸し出す冷ややかな質感だろうか。


02.5.20.

ブルックナー 交響曲第4番(ノヴァーク版) オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン 英EMI Classics 5 73905 2

全集からの1枚。ブルックナーの対位法が見通し良く聴ける演奏。そうでなくても音が全体にすっきりしている。各楽章のセクションごとの性格付けも明確で、適度なテンポの変化があり、非常に聴きやすい。おそらくブルックナーの導入としてはもっともふさわしい部類の演奏ではないかと思う。大いに感心。他の交響曲も聴き進んでいきたい。


02.5.21.

アルバム『悪魔の踊り』 ギル・シャハム(ヴァイオリン)、ジョナサン・フェルドマン(ピアノ) 独Grammophon 289 463 483-2

「悪魔」という言葉にちなんだ、あるいはそれから想定される楽想のヴァイオリン作品の選集。19世紀というのは、西洋の世俗音楽の全盛の時代といってもいいのかもしれないが、そんな中で悪魔的なものがもてはやされたのは興味深い(ジョン・ウィリアムズのような映画音楽やコルンゴルトの《カプリース・ファンタスティーク》もあるが)。そして、超絶技巧が悪魔の産物と捉えられ、それを我々も自然に受け入れられるというのは、尋常ならぬ音に、超自然的なものの存在を信じるからなのだろうか。

シャハムのヴァイオリンは、ヴィルトゥーゾの作品でありながら、あまり難しそうには聞こえない。むしろショーピースとして楽に聴けるような印象さえ持った。難しい曲を技術を思わせないように弾くのが真の音楽家だと言われるようにも思うが、ヴィルトォーゾ的な作品の場合は演奏上の技術に問題がない上に、さらに技巧を見せびらかせ、聴き手を圧倒する要素も必要ではないだろうか。そういう風に考えてくると、シャハムのヴァイオリンの技術は安定しているが、技巧の見せびらかしはもっと欲しいということになるのかもしれない。一方タルティーニのような時代を経た作品については、トリル以外の部分をどう聴かせるかも重要になってくるように思うのだが、その技巧とは違った難しさについても感ぜずにはいられなかった。

ボロディン 交響曲第2番 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団 蘭Philips 422 996-2

曲を聴きながら、オーケストレーションや和声進行が、オペラ《イーゴリ公》に似ているなと思っていた。参考までに音楽史の本を眺めていたら、実際にそのオペラの音楽が土台になっているとのこと。異国趣味的な味わいのある旋法を多用した魅力的なメロディーがとても印象的だ。ロシア的・西洋的という2つの軸で考えると、どの辺にボロディンを置くべきなのだろうか。ちょっと分からない。


02.5.22.

アルヴォ・ペルト/ジョン・タヴナー合唱曲集『夜から』 アンドリュー・パロット指揮タヴァナー合唱団 米Sony Classical SK 61753

瞑想の時のBGMとなりそうな静謐(せいひつ)な響きの音楽。ゆっくりとしたテンポの中で鳴らされる多層に積み重ねられた厚めの和音は、あるいはポピュラー音楽で多く使われているのかも知れないが、この手の音楽を愛好するリスナーには、たまらない魅力なのだろう。不思議と宗教的な歌詞を持つものが多いようだが、現代における信仰の世界を、こういった作曲家たちがどのように捉えているのかには興味がある。「癒し」の音楽などと呼ばれることがあるが、信仰というのは積極的に真剣に営む面もあるのだし、これらの音楽が「癒し」として、ただ聴き流されるだけだとしたら、それで作曲家の方は満足できるのだろうか。

いわゆる調性復活を考えるにしても、どの当たりの調性に自分をおくかによって、進む方向は大きく変わってくるように思う。この人たち(演奏者を含めて)の場合は、ア・カペラのイメージでは中世やルネサンスなのかもしれない。しかし、なぜかポリフォニーの世界にはほとんど足を踏み入れない。あるいはそういう所も、これらの作品に、ヨーロッパに脈々と続く宗教的世界を筆者が素直に感じられない要素になっているのかもしれない。

パロット・コンソートのCDはかつて聴いたことがあった。「学究的」という印象を持つ人もいるようだが、このCDは、作品の性質もあるのか、比較的聴きやすい。


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