最近見たもの、聴いたもの(51)


2002年5月10日アップロード


02.5.3.

ブルックナー 交響曲第8番(ハース版) ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団  米RCA Victor 60364-2-RC

本当に久しぶりのヴァント。彼の第一印象はルバートや「ため」の少ない、ストレートにぐいぐい進めていくタイプの指揮者なのだが(ブラームスの第1交響曲の冒頭などが、強く記憶に残っている)、その印象は、これを聴いてもそれほど変わらない。しかしブルックナーの音楽は、ソナタ形式の大きな枠組みの中にいろんな要素が組み込まれている。この演奏でも、そういったセクションごとのテンポ設定というのは、あらかじめしっかり決められているようだ。もちろんセクションごとのテンポ設定はブルックナーが特別なのではなく、その他の作曲家でもよく行われていたと思う。しかし、ブルックナーでは、それが、従来のソナタ形式なり、三部形式なりだけでは済まないのだ。

ヴァントは随分高齢になるまで指揮活動をしていたけれど、音楽作りそのものは現代的なのではないだろうか。「因習」などという言葉からは遠い存在であるだろうし、「〜らしい演奏」の「〜」の部分に作曲家を当てはめるのが、他の指揮者よりも難しいように思う。いや、彼の演奏に共感する人間であれば、彼のブルックナーこそ「ブルックナーらしい演奏」になるのだろうけれど。

一方ヴァントの音楽には一見即物主義的な味があって、もしかすると、それがアメリカ人にはウケない原因なのかもしれない。しかし、その頑強なテンポで進む音楽の中にも透き通った響きがあり、さらにその中で、微妙な旋律線の絡みがきれいに浮き上がってくる。和音を堆積していくバランス感覚も見事だ。ごまかしや作為的なポーズがないのも、潔く聴こえる要因かもしれない。

この北ドイツ放送交響楽団との演奏は、懐石料理のような8番といった感じもするのだが、新しくベルリン・フィルと入れたものは、もっとオーケストラが遠慮なく鳴っているそうだ。しかし、このストレートで品の良い録音はブルックナー演奏の一つのあり方として、大変魅力的だ。どうやら教会で録音がなされたようだが、第2楽章のブラスが吹き終わったあとの残響に、吸い込まれていくような空間性を感じた。


02.5.7.

ムソルグスキー(ラヴェル編曲):展覧会の絵 ラヴェル:ボレロ セルジウ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 独EMI 5 56526

これは「指揮者のペースにあわせてじっくり耳をそばだてて聴いてみるべきであろうか」と思わせる演奏だ。一歩一歩足下を確かめるようなトランペット独奏に続き、音色的なコントラストを際立たせるオーケストラの響き。不思議と弛んだままにならないのは、ダイナミクスによるメリハリがきいているからか。遅いなら遅いなりで、クリアなアイディアを持って音楽を進めているところも要因だろう。聴きながら、細かな半音階の上行に気付いたり(例えば<小人>における弦楽器--前打音のようにしているのは、彼のスコアのせいか?)、和音の微妙な変化に気付いた箇所も確かにあった。

好みだけで言えば、この作品にはもっともっと楽しさが欲しいと思うが、楽譜を改めて取り出して、音符と音を比較分析してみたいようにも思った。安易に「異端」という言葉は使いたくないけれど、明らかに、いつも聴いている《展覧会》では聞こえなかった魅力もあるように思えたからだ。《キエフの大門》の、時に柔らかく繊細な音作りは、ちょっと他では味わえないように思う(しかしオケによる鐘の音の減衰は、「本当はああなる」ということなのかもしれないが、かえって原曲の面白さを半減しているように思う)。

ところで、これはおそらくピアノのオリジナルでは演奏できないテンポだろう。音が減衰してしまっていて、音楽が続かなくなるに違いない(<卵の殻をつけたひなどりのバレエ>や<リモージュ>は例外か)。まさにオーケストラ版ならでは。もちろん、よく楽団員が付いてくるなあと感心もした。

ラヴェルもゆっくりとしたテンポ。しかし凝縮された音楽の運び方が芯の強さを見せつけるように思う。

ところで私のいる大学にはEMIやDGから発売されたチェリビダッケのCDは一枚も入っていない。これは恥ずかしい。


02.5.8.

ベートーヴェン ピアノ作品集 ルドルフ・ゼルキン(ピアノ) 独Sony Classical SBK 62025(アルバム「Unsterblicher Beethoven 5」)

ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13《悲愴》、第29番変ロ長調《ハンマークラヴィーア》、幻想曲ト長調作品77

以前彼の《ディアベッリ変奏曲》をLPレコードで聴いて感心したことがあるので、他のベートーヴェンも聴いてみたいと買ってみたもの。偶然インターネットの掲示板でもゼルキンのことが話題になっていたので、覗いてみた。その議論は彼の音楽を基本的に称賛していたが、「ゼルキンはテクニック的にはあまり大したことないのだが」という意見が多く見られ、私は意外に思った。というのも、私はゼルキンの演奏をこれまで聴いて、それほどテクニックのことを問題視してこなかったからだ。シューマンの協奏曲や五重奏曲にしても、むしろ技巧としては、全く申し分ないと考えていたくらいだ。

しかし評論家の間でも、ゼルキンのテクニックについては、すでに評価が定まっているかのようだ。困ったことに、このCDを聴こうと昨日棚から取り出して、今聴こうとする前にその議論を見てしまい、突然ゼルキンの技巧に耳が行ってしまうことになった。《ハンマークラヴィーア》の最終楽章など、確かにテクニック的に完璧でないところが、いつもより露骨に聞こえてきてしまう。

いや、そうすると、今まで私がテクニックを気にしなかったことはどういうことか、という疑問につながる。もちろん単に私が鈍感であったということもあるだろうけれど、とっさに一つ考えられるのは、ゼルキンが、自己の音楽表現のための・手段としてのテクニックは確実に備えていたことがあるのかもしれない。そしてそれ故に、それ以上のテクニックを聴く必然性もそれほど感じていなかったのではないかということだった。そして、この人も本当に良い耳を持っているのだろうな、ということだろうか。

ところで、ゼルキンは《悲愴》のソナタ提示部を反復しているが、なんと序奏まで戻っている。シュトルム・ウント・ドランクの雰囲気が濃厚なこのソナタの解釈の一つとしては意味ありげだが、やはりそれはちょっとやり過ぎの感もしないではない。


02.5.9.

ラフマニノフ 《晩祷》作品37 デヴィッド・ホール指揮フィルハーモニア・コーラス 英Nimbus NI 5432

正確には「徹夜祷」と訳されるべきだそうだが(こちらを参照)、そうでなくとも、カトリック教会の「晩課」と間違われやすいそうだ(そういえば、どちらも横文字ではVespersになっている--CDの裏には"All-Night Vigil"と正しく訳してあるようだが)。実際には祝祭日の前日の夕方6時から翌日の朝9時まで続く礼拝だそうで、挽課、朝課、第一時課と3つの礼拝を組としているようだ(参考文献:川端純四郎他 『キリスト教音楽名曲CD100選』 日本基督教団出版局、1995年、164〜165ページ)。バッハの《クリスマス・オラトリオ》じゃないけれど、一度に音楽だけ通して聴くというのは、だから本当の文脈からすると違うのだろう。それぞれの礼拝における信仰の高まりと静まりは、音楽の流れと密接に関わってくるだろうから。

それはともかく、この「作品」は全曲美しい和声で書かれているが、第8曲目などには、ちょっと口ずさみたくなるような旋律もあり、ロシア正教では、派手な音楽が禁じられていたとはいえ、力強い民族的な味わいはあるように思う。

ラフマニノフ自身はそれほど熱心に教会に通っていた訳ではないそうだし、宗教曲も少ないそうだが、良い曲を残したものだ。ピアノ曲からはちょっと考えにくい世界かもしれない。


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