最近見たもの、聴いたもの(50)


2002年4月19日アップロード


02.4.6.

武満徹 ウィンター(1971)、マージナリア(1976)、ジティマルヤ(1974) 岩城宏之指揮東京都交響楽団 日Victor VICC-23013

60年代のコントラストをきかせた厳しい音楽とは違い、ぐっと落ち着いたアプローチの作品群。それまでになされてきた音響に対する絶えまない試行錯誤と詩的な円熟が、彼の表現をこのように確立させることになったのだろうか。《ウィンター》では、弱音の微細な音に聴く変化、各種打楽器や管弦楽の奏法、クラスター音のバランスに魅了された。ぽつりぽつりと見え隠れする、重なり合う音の妙(たえ)。しかしただ長大にフレーズが続くのではなく、人間の息にも似た、無理のないフレージングもあるようだ。感性の光る作品だと思う。《マージナリア》では打楽器とピツィカート弦といった音素材が静かな音の空気の中に現れては消えていく。それにコントラストの面白さ。ナイーヴなほどの念の入れ方を感じた。


02.4.7.

ジャチント・シェルシ ウアクサトゥム 仏Accord 200612

管弦楽のための5つの小品、《アナイ》も収めた、シェルシの合唱と管弦楽のための作品集。1989年プレスとあるが、確か私が購入したのは1990年代初頭。東京は中野にあったサンタディスコスというレコード屋で購入したのだったと思う。「シェルシ、かっこいいですよ」と言われて、そのまま好奇心で手にしたと思うのだが、しばらくこのCDには馴染めなかったというのも事実。いつも5つの小品で聴くのをやめてしまっていたからだ。単一の音と音色の移り変わり、あるいは微分音をずらしていくアイディアには感心したのだが、どうも続いていかないように思われたからだ。しかし、ある日《ウアクストゥム》から偶然CDを始めることがあって、私のシェルシに対する認識は大きく変わった。この響きは何だろう、と。

よくブルックナーを宇宙に例える詩的評論を見るが、私にはこの作品の方が、よほど「コスモロジー」というスケールを持っているように思う。クラスターの柔らかな質感、不思議な時間の流れに、世を隔てたものを聞き取ったからかもしれない。もちろんトリスタン・ミュライユ演奏によるオンド・マルトノも微妙にはいってくるが、「いかにもマルトノを入れてみました」というおもむろさがないのは、かえって新鮮だった。

5つの小品については、後に仏FYレーベルから出たLPで聴くことがあり、そちらで作品に内在する、コンセプトを遥かに超えた音の世界に浸ることができた。もしかしたら、Accord盤の方は、演奏が気に入らなかっただけなのかもしれない。

引き続き、管弦楽作品のみによる別のディスクも聴いているが、文字どおり時間を忘れてしまう。すごい音楽だ。


02.4.8.

ソロモン(20世紀の大ピアニスト) 蘭Philips 456 973-2

ソロモンというピアニストを聴いたのは、確かEMIから出された、名ピアニストばかり6人を集めた組物のLPだったように思う。その時は漠然と、苗字だけの演奏者名に興味を持ったか、こんな人もいるのかと思った程度であった。

そのうちこのCDを、地元のお店で偶然見ることがあり聴いてみたのだが、初出とされるモーツァルトのタッチの確かさに「耳のよさ」を感ずることになった。

ドニゼッティ ランメルモールのルチア ジョン・サザーランド(ルチア)、アルフレッド・クラウス(エドガルド)、リチャード・ボニング指揮メトリポリタン歌劇場 米Bel Canto Paramount Home Video 12508(VHSテープ)

オペラを現代的なものとして捉えることができるのだろうか? 舞台設定は17世紀のスコットランド。19世紀イタリアの文脈では、すでに「現代」ではないのだ。しかしこのオペラが名作とされるのは、この作品が、依然ヨーロッパ産まれだからなのだろうか? 少なくとも日本の現在の私が、これに共感するのには、時代性だけではないものによるのだとは思う。

いわゆる「ベルカント・オペラ」と称されることになった声の美を十全に発揮する音楽も、えぐるような情感の蠢き(うごめき)を支えるオーケストラのドラマもある。画面に見るのは確かにヨーロッパの人たち。でも現在の私が投影できる何かもそこにはあるはずなのだ。

このプロダクション、最初はサザーランドとクラウスの演技のまずさも若干気にはなったのだが、第2幕にもなれば、やはりベルカントの良さに気をとられるところもあったのか、それも忘れてしまっていた。そして「狂乱の場」のサザーランドの息を飲む歌唱とそれに寄り添うフルートの見事な独奏に目を見張る。すべては狂気の中の妄想・夢想でしかないのだが、その中で自分の愛に浸り切るルチア、そしてそれをソプラノの格好の表現として歌いきれる音楽的醍醐味。歌手としての最大限の表現と狂気の中の至福の世界がうまく相関しあって、絶妙な世界を作りあげる。しかし、現実として舞台上にいるルシアには血塗られた衣装が。


02.4.9.

リヒャルト・シュトラウス サロメ レオニー・リサネク(サロメ)、エベルハルト・ウェハテル(ヨハナーン)、ハンス・ホップス(ヘロド)、カール・ベーム指揮ウイーン国立歌劇場、1972.12.22.録音 米Opera d'Oro OPD-1165

モノラル録音で、初めて買って聴いた時にはがっかりしたものだが、改めてスコアを眺めながら聴いてみると、歌手の強靱なスタミナ、特に強唱が続いているにもかかわらずデリカシーも決して失わないその安定した表現力に、あきれるほどのすごみを感じた。また管弦楽法、特にヨハナーンの首を持った時の、サロメの「法悦」の時の音といったら。ここでは、シュトラウスがオーケストラ伴奏歌曲で見せた腕前が、さらにスケールをアップして、いかんなく発揮されている。


02.4.10.

米国空軍軍楽隊「Airmen of Note」ツアー フロリダ州立大学ルビー・ダイアモンド公会堂、午後8時

グレン・ミラーが第2次世界対戦中に従軍し、スイング・バンドを軍隊に作ったことは有名だが、このAirmen of Noteはその伝統を受け継ぐバンド。いわゆる吹奏楽とは別の団体である。聴衆の大半は元兵士であり、平均年令も高く、白人が多い。スイングの時代的な背景を示しているようだ。いかにも軍隊らしく国家斉唱から始まる。相変わらず立つことには抵抗がないが、やはり歌を歌おうという気にはなれなかった。これは私のこの国に対する、特に近年の軍事行動に対する心のわだかまりなのだろう。以前よりも心苦しくならざるを得なかった。

それはともかく、バンドの技術的水準は大変なものであり、特にトランペットにはハイトーンをいくらだしても大丈夫そうなプレイヤーまでいて、度胆を抜かれた(といっても、彼はメイナード・ファーガソンではないけれど)。また、演奏する曲目も、決してグレン・ミラー的な伝統的スイング(自ら書いていて、変な言葉だと思う)だけではなく、チック・コリアのナンバーや、フュージョン的な楽曲もある。バンドのメンバーにもアレンジャーがいて、彼が作った《シング・サング・ソング》(もちろんエリントンの名曲をもじったもの)なども、楽しかった。一方で《イン・ザ・ムード》、《ムーンライト・セレナーデ》、《茶色の小瓶》などのスタンダードもあり、こちらの方は、年代的・あるいは聴衆への配慮もあってか、しっとりとしたアプローチで演奏され、あまり大鳴りしなかったのが良かった。

いま「大鳴り」と書いたのだが、それはこのバンドでちょっと気になったこと。技術的には凄いものを持っているのだが、時にうるさく感じられることもあったからだ。それに、このバンドには、なぜかあまり「すわり」の良くない独特の居心地の悪さを感じることもあった。例えばこのことは、以前聴いたカウント・ベイシーの楽団にはなかった。もちろん大学の講堂という場所柄もあるのだろうが、どうもそのまま体が乗り出してくるような、リラックスした雰囲気が足りないという気もしたのである。

ソリストにしても、トロンボーンがハイFを出すなど、驚くほどの技術は持っているのだが、懸命にやっているという迫力がある一方、純粋にエンターテイメントしていないのではないかという疑いも持った。スイング感の固さがその原因であるようにも思う(なぜか黒人のテナー・サックスにはそれがなかった。彼はバンド唯一の黒人だったのだが)。もちろん私が単に楽しんでないということも考えられるけれど。

空軍バンド所属のヴォーカリスト、トレーシー・ライトも数曲歌った。彼女の声質には、ちょっとハリがなかったのと、やや一本調子的なところもあり、後半のステージに彼女が出た時など、聴衆の一部から「彼女だけなのか、歌うのは」という声が漏れたのも、ある意味理解できるところではあった。

それでも全体としては、タラハシーで聴く音楽としては高水準であり、もっと以前から聴いておけばよかったと後悔したが、最後は9・11(ナイン・イレヴン)にひっかけて愛国主義むんむんの展開になり(「God Bless America」を歌い、途中で国旗が出てくる。会場総立ち)、いい加減アメリカは被害者としての立場に浸り過ぎるのではないか、という気持ちにならざるを得なかった。


02.4.11.

ムソルグスキー(ラヴェル編) 展覧会の絵 エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団 英Decca-Ace of Clubs ACL 48(モノラルLP)

おそらくステレオの録音テープなのだろうが、これは古いモノラルLP。冒頭のトランペットから、清涼で明るい音色。続く金管合奏は、近年のデリケートなアンサンブルを目指すようなものと違って、ためらいもなく派手だ。この音色の明るさは一貫しており、やはり管楽器の混ぜ方に耳がいく(《カタコンブ》の冒頭には疑問を感じるが)。必ずしも技術的に卓越したアンサンブルとは限らないが、それはあまり大きな問題になってないと思う。

それにしても、この演奏は、原曲に見る重厚な、あるいは暗さが抜け切れないピアノの音とはかなり印象が違う。それはラヴェルのフランス人としてのステレオタイプを当てはめて、雅らかであるとか優美であるなどという言葉で述べられるものなのかもしれないが、こういうのが新鮮で、ラヴェル編曲が広く受け入れられるようになったのだろうか? 私はストコフスキーの、ラヴェルの向こう側を行くようなアプローチも嫌いではないのだが。

そういえば、このアンセルメ盤は、ひと昔前なら名盤として挙がっていたのではないだろうか。私も「ムソルグスキーらしさ」(というかロシア的ステレオタイプ)にこだわらなければ秀演だと思う。でも、現在はどうなのだろう? これを基準盤にしてしまうと、他のが全部「異端」に聞こえてしまう可能性さえあるようにも思うが。

同時収録は、ラヴェルの《ラ・ヴァルス》(パリ音楽院管弦楽団)。やはり明るい音色が印象に残る一方、この作品独特のグロテスクさを求めると、物足りないのかもしれない(後半のテンポの選び方に、この指揮者の趣味を垣間見てしまったような気がした。どうもこれは私の好みではない)。それはムソルグスキー作品についても言えるのだろう。

ベートーヴェン 交響曲第7番 エーリヒ・クライバー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 米London B 19054(LP)

「カルロス・クライバーが名演をする曲目は、お父さんのスコアを使っているからそうなるのだ」という噂を耳にしたことがある。その真偽はともかく、そのカルロス・クライバーがウイーン・フィルと入れた第7は、多くの人が勧める有名な録音であり、無論筆者も大好きな盤だ。

父親のエーリヒ・クライバーのベートーヴェンは、以前《英雄》を聴いて大いに感心したので、この盤を試しているのだが、このリズムのキレの良さ、しっかりとした足どり、そして威厳…立派だ。表情の豊かさ、各楽器群の音の出し方・バランスの取り方では、むしろこの父親の方に軍配を上げたいところもある。特に弦楽器の出し方が面白い。

ところが後半楽章は、カルロス・クライバーとはアプローチが違う。第3楽章トリオから主部に戻るあたりの音色に対する感覚、あるいは第4楽章全体の捉え方など。このフィナーレの弦楽器による旋律には、息子のものよりもずっと重みのかかった伴奏をつけ、ひきずるかのようにも聞こえる。一瞬慎重すぎるようにもおもったのだが、単純に第4楽章はスケルツォからつながる舞曲風の楽章ではなく、もっと複数楽章の作品の最後を飾るものとして意味のある音楽にしているのかもしれない。カルロス・クライバーは後半の2つの楽章が一体となって駆け抜けるようであり、スケルツォの終わりからフィナーレが、舞曲の前半後半であるかのようになっている(第4の後半楽章もこうではなかったか?)。一方エーリヒ・クライバーはスケルツォをそれまでの音楽をリフレッシュするものと位置付け、第7をまとめる最終楽章へ備えるといったアプローチに聞こえるのだ。楽式論的には、なるほど納得できるやり方ではある。あるいは、息子の方が型破りということか。

更に曲の一番最後のイ長調スケールの下降を、まるで聴き手に確認させるようにエーリヒ・クライバーは聞かせる。イ長調が当作品の中心としての構築物を形作っていたことを、間違いなく筆者は聞き取ったような気がした。


02.4.12.

マーラー 交響曲第2番《復活》 イレアナ・コトルバス、クリスタ・ルートヴィヒ、ズビン・メータ指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 米London 414 538-2

全般にすっきりと見通しの良い響きに驚いた。また大袈裟なふりをしないがスケールは大きく取ってあり、聴きやすいのが特徴。第1楽章の激情がなくなる訳ではないが、シャープな音楽づくりに圧倒されるのであって、押し付けがましく迫ってくるような感覚はないように思う。そういえば、彼のマーラーといえば、5番もそれなりに良い印象がある(あれはニューヨーク・フィルだっただろうか)。しかし、その音楽がこの第2のようだったかどうか、どうも覚えていない。それにしても、不思議な魅力のある演奏だ。当作品への導入としては、案外こういうものの方がいいのだろうか(テンシュテットも良いと思うが)。いや、それともクド目の演奏を知っておくべきだろうか。


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