最近見たもの、聴いたもの(48)


2002年3月12日アップロード


02.3.1.

ベートーヴェン 交響曲第5番 ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 米Columbia CL918(LP)

後のコロンビア交響楽団の録音に比べてこのニューヨーク・フィルの第5は、オーケストラの反応がまず違う。それは単に機能性という技術的な問題だけでは片付けられないようにも思う(アンサンブルの悪い箇所もなくはないが)。コロンビア交響楽団によるステレオ録音も自然体のアプローチで、ニューヨークのほど型式ばったところがない。反対に、細部に対する鋭敏さや、フレーズに対する細かい注文というのは、こちらの方が聞き取りやすいように思う。

なおこのLPはテレビ番組「Omnibus」のエピソードに引っ掛けたもので、A面はレナード・バーンスタインによる、ベートーヴェンのスケッチの考察になっている。ベートーヴェンが実際に作品として使わなかった部分をあえて演奏してみることによって、この作曲家がいかに試行錯誤の上に今日我々が知っている第5交響曲(の第1楽章)を練り上げたのかという企画。これを極めて感覚的な解釈による分析と批判する人もいるのかもしれないが、実際の音を通じて実証できる音楽家の発言には、この例のように強い説得力があるのも確かだ。この音源はCD化もされていたのではないだろうか。


02.3.3.

ブラームス 交響曲第4番 レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 米Columbia ML 5879(LP)

鳴りの良いオーケストラが、勿体ぶることなくブラームスの醍醐味を伝える熱のこもった演奏。管楽器の音色や木管楽器のアンサンブルに、いかにもバーンスタイン時代といった「音」が見出せなくもないが、それに気を取られるようなものでもない。第1・第3楽章のような楽章は特にその鳴りの良さが存分に発揮され、一度走り出すと止まらないところに多少苦笑いをしたのも確かだが、それが決して悪い結果につながっているようにも思えない。むしろ、最終楽章のクライマックスなどは、それほど忘我的でないところに、かえって驚いたくらいだ。

フランスの音楽 ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団 米RCA Camden CAL-385(LP)

ミヨー/プロテー:交響組曲第2番、ドビュッシー(ラヴェル編曲)/サラバンド、ベルリオーズ/ラコッツィ行進曲、ダンディ/Fervaarl作品40:第1幕への前奏曲、ダンディ/イスタール:交響的変奏曲作品42

モントゥーがどのようなレパートリーを中心に録音していたのか、まだそれほど知識がないのだが、お国ものが得意であったということは、評論家でなくとも安易に推測することができる。作風の面白さではミヨーだと思う。19世紀的な語法に時々不思議な音が混ざってくるような世界だが、不思議と時空の歪みのようなものを感ずる。演奏としては《ラコッツィ行進曲》の鳴らせ方に耳が行く。パートを細部まで知っている印象を与えたのは、私が聴き慣れたのとは違う楽器の出方によるものだ。こういう風に、作品の可能性を引き出してくれる指揮者というのは、やはり優れているというべきではないだろうか。


02.3.4.

イグナツィ・ヤン・パデレフスキのロマンティック・ピアノ 米Everest 3453(LP)

メンデルスゾーン/紡ぎ歌(《無言歌》第6巻作品67より)、シューベルト/即興曲作品142の3、ショパン/ノクターン作品48の1、ベートーヴェン/月光ソナタ、ショパン/ノクターン作品37の2、シューベルト/即興曲作品142の2

ピアノロールに記録されたパデレフスキーの演奏の数々。レコードの解説によると、ここで使われている「DUO-ART」のピアノロールの場合は、音高だけでなく、強弱やペダルの使い方まで記録されているというが、技術的なことに疎い筆者には、それが実際、どのくらいまでこのレコードに聴く音に反映されているのか分からない。だから、ピアニズムの細かいことについて何も言えないのであるが、メンデルスゾーンやシューベルト作品などは、素直な音楽づくりに好感がもてたし、ショパン作品におけるニュアンスの付け方も思ったより簡素でおとなしいので、ちょっと驚いた。

一方ベートーヴェンの《月光》ソナタには違和感を感ぜずにはいられなかった。おそらく最近の「楽譜に忠実な」演奏法になれているからかもしれない。かつて演奏家には楽譜の細かいところを自由に弾く習慣があったのだろうが、そうすると「これは楽譜にないことだ」と、ベックメッサーよろしく、指摘したくなってしまうのである。いや、多少の楽譜の改訂は良いと思うし、それが演奏効果に反映していればいいのだろうが、このパデレフスキーのは、それほど成功しているように思えないのである。筆者の音楽観の狭さのせいだろうか?


02.3.12.

ブラームス 二重協奏曲 ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)、ミッシャ・マイスキー(チェロ)、レナード・バーンスタイン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 独グラモフォン 410 031-2

オイストラフとロストロポーヴィッチの演奏を以前に聴いたことがあるからか、第1楽章など、緊迫感の中にも和やかな雰囲気を感じてしまった。全体に重すぎるような気もするのだが、どうだろうか? 第2楽章は、音がマイルドに落ち着いているので、うまくいっているのかもしれないが、あまりに内省的であるようにも思う。もっと起伏に富んだ音楽作りも可能だと思うのだが。いや、これは演奏ではなくて、作品そのものの問題なのかもしれないが。第3楽章は、第1楽章と類似した問題点を感じる。ほのぼのとしたアンサンブルの妙技もよいのだが、それ以上の何かがもっとできるのではないだろうか。例えばリズムの生命力や音の速度感に注目することはできなかっただろうか。また、旋律で聞かせることがあまり得意でなかったブラームスであるから、断片的なフレーズをいかにつないで音楽としていくかが重要な課題かもしれない。この演奏は、やや個々の箇所に浸り過ぎかもしれない。全体を見通した構成力が欲しい。なぎ倒すようなソロの応酬(やそれにうまく絡むオーケストラの妙技)があれば、あるいはそれも気にならないのかもしれないが。

ブラームスは「渋い」と言われるが、本当は演奏家が渋くしすぎているのではないか、と思う時もある。


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