最近見たもの、聴いたもの(47)


2002年2月22日アップロード


02.2.10.

ポピュラー音楽の本によると、ブルースのコード進行には一定の規則があるそうだ。それを書き出してみよう。

I		 I		I		I
IV		IV		I		I
V		IV		I		I

そして「あれ、これは!」と思ったのが、小林亜星作曲の《すきすきソング》。アニメ「ひみつのアッコちゃん」のエンディング・ソングだが、コード進行がぴったり。1行目・2行目でストーリーが告げられ、3行目にシメがくるパターンも同じだ。歌にはブルーノートらしきものも入っているではないか(音程のずり上げ)。他に思い付くのは、「グレートマジンガー」のオープニング曲。前奏と前段がそれに近い(三行目の和音のIVは、Vの和音の中の経過音として短く通り過ぎるだけ)。これも「ダッシュ」「ダダッダー」の箇所にブルーノートが入るため、叫びっぽい歌い方になる。しかしこの歌の後段は全然ブルースと関係ないヘ長調。コントラストが面白い。


02.2.11.

シューマン 交響曲第4番 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 独グラモフォン(LP)

作品に興味を持たせてくれる演奏が名演の一つの指針だとすると、この演奏は間違いなく名演だ。これまでにも4番についてはいくつか聴いたことがあるが、力作と言われる割に、いま一つのめり込めてなかったところがある。しかしフルトヴェングラーの濃密な音楽づくりや、音楽が高揚してきたときに、その興奮を自然に引き出し最大限に表現として生かすうまさに敬意を表したい。こういう演奏をきくと、聴き手の方はつい力んでしまうところがあると思うのだが、実はそういった力強さというのは、押しの力では出てこないと思う。彼の指揮が、割合ブランブランとした腕使いになっているのにも、そういった理由があるような気がする。力強さが自然に音として解放されていくにはどうすればいいのか、フルトヴェングラーは良く分かっているのではないだろうか。

これはスタジオ録音だときいているが、こんな熱っぽい演奏が聴衆なしでもできるのかと驚いた。フルトヴェングラーによる演奏で、ベートーヴェンの5番、シューベルトの9番、シューマンの4番というのは、多くの人の音楽観に影響を与えるに違いない。


02.2.12.

ワシントンのラジオ放送で、ガーディナーの《第九(一発変換!)》を聴く。第1楽章のテンポの速さ、切迫感に圧倒された。高校・大学と合唱で体験した私にとって、前3楽章というのは「コーラスのための前座」で、ステージ前の緊張のひとときなのだが、実はこれらの楽章の音楽的な面白さというのは、やはり無視できないと思う。

驚きの第1楽章に対して、第2楽章はわりと通常通りという感じもした。トリオ部分のテンポには解釈がいろいろあると思うが、それも通常通り、快速に流した感じだった。第3楽章では、何と言ってもビブラートの少ない弦楽器とナチュラル・ホルンの響きに耳が行く。最終楽章はトルコ行進曲の部分の速さに、一種狂信的なものさえ感じた。一度テレビで放映されたのを見てガーディナーのテンポは知っているものの、やはり驚きだ。しかし、やたらめったら速い訳ではなく、終結部など、着実なテンポ設定の感じられるところもある。

そういえばテレビで見た時は、ソリストはステージ中央ではなく左の方に立っていた。なんだか寂しそうだったけれど、あれは音響的な配慮だったのだろうか。各楽器群の音色が際立って聞こえてくるのもピリオド楽器ならではで良かったのだが。CDをぜひ買ってみたいところだ。


02.2.15.

日本ではギュンター・ヴァントが亡くなったことで持ちきりのようだ。私が最初に聴いたのは、確か80年代半ば辺り、N響とベートーヴェン/第5交響曲や《火の鳥》をやった時だったと思う。ラジオをつけた時に偶然前者をやっていて、すごい演奏におどろき、あわててカセットを準備して、第3楽章から録音したことを覚えている。たぶん《火の鳥》はその後。ワント(と当時は呼ばれていた)という名前をなんとなく覚えていて、それでエアチェックしたんだったと思う。<終曲>のg-f-e-g-d-Cの旋律をオーケストラのトゥッティでやった時、音を切っていたのが印象に残ったのだが、自演盤でもそうだったのには驚いた。

ヴァントとして知ったのは大学時代。友人にやたらとのめり込んでいるのがいて(ただし彼はクラシック・ファンではなかった)、ブラームスやベートーヴェンの全集を借りた覚えがある。ブラームス/第4のLDも、彼から買ったのではなかったかな? 実はこの時はワント=ヴァントということがよく分かってなかったんだけれど (^_^;; 頑強なテンポの保持、オーケストラの実のある響きが渾然一体となって迫る音楽には、強い説得力を感じたものだ。ブルックナーについてはあまり知らないので何とも言えないが、最近ここ何年かの異常な盛り上がりについては、多少疑問にも感ずることもあったかもしれない(いや、朝比奈にしてもそうかな)。でも、妥協のないリハーサルなど、商業主義におぼれがちなクラシック界においては貴重な存在であったことは間違いないだろう。今週末はブルックナーの何かを図書館で借りてこよう(ただし、NDRの7・8番しかない!)。う〜ん、それとも先日買ったシェーンベルク、ウェーベルン、ストラヴィンスキー作品の入ったLPにしようかな?


02.2.20.

論文の「テクノロジーと音楽」の箇所について、担当教授と話し合う。面白いアイディアがいろいろあるので、それをもっと展開するように、と言われた。あとは英語で考えずに、日本語で考えたらどうかというアドバイス。英語の語彙が不足していると、それだけ考えがしぼんでしまうということに対する心配からだという。話している間にもどんどんいろんなアイディアが出てきて盛り上がる。いつもポジティブに私を支援してくれて、とてもうれしい。


02.2.21.

とある掲示板で、芸術論について盛り上がっているのを受けて、ここ数日それに参加。音楽以外の知識ももっと必要だなあと思うこの頃。あせらずに勉強していきたいと思う。その他には来月放送分のラジオ放送のアイディアを練る。「オーケストラ以外のメディアをもっと含めて」という要請に答えるように。宗教音楽の回も一回やってみたいんだけど、賛美歌の音源がもう少し欲しいなあ。


02.2.22.

アンドレ・ワッツ 東京ライブ 米CBS Masterworks M 37792(LP)

スカルラッティ ソナタヘ長調 L. 187、ソナタイ長調 L. 391、ハイドン ソナタハ長調 Hob. XVI: 48、ブラームス 間奏曲作品119の2・3、ラヴェル 《鏡》から<悲しい鳥たち>、ドビュッシー 子供の領分

スカルラッティ、ハイドンのソナタの速いテンポの楽章に見せるテクニックの鮮やかさはライヴということもあって効果的でもあるのだが、しっとりと聞かせるのとは違うので、何となく息が詰まった感じになることも確か。フレーズが端折り気味になるのも、臨場感と取ることもできる一方、なぜそうも「弾き飛ばす」のかと気になる向きもあろう。決して繊細さが足りないということではないのだが(安定した技巧は揺るぐことがないし)、好みの問題なのかもしれない。

ブラームスに移っても、その問題は引き継がれていく。派手に聞かせる一方、ブラームス特有の重厚さを求めると、違和感につながる恐れもある。《間奏曲》作品199の3などは、それが余計気になってくるようだ。もっとも筆者が従来のブラームス像に囚われているからかもしれないが。

しかしラヴェルになると、彼の伸びやかな感性が、反対に表現の強みとなってくる。確固としたテクニックも「冴え」として響いてくる。もしかするとワッツに必要なのは楽器から引き出す音色の問題なのかもしれない。オールマイティーのピアニストが必ずしも良い訳ではないけれど、落ち着いて取り組めば、古典もの、19世紀ものも面白くなるかもしれない。


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