最近見たもの、聴いたもの(43)


2001年12月29日アップロード


01.12.19.

今こちらに来ている学生で、日本で吹奏楽をやっていたという人がいる。偶然なんだけれど、その人とウォルトンの《ピータールー(ロー?)》序曲についての話になる。私がこの曲と出会ったのは、10年以上は前。当時石丸電気の3階は、まだLPレコードがレーベル別に並んでいた時代だ。そこでウォルトンやアーノルドなどの英HMVレーベルのLPを何枚か買っていた。確かアーノルドは、有名な《スコットランド舞曲》がなくて不満だったんだが、買ったLPの中に《イギリス舞曲》と《コーニッシュ・ダンス》?なんかが入っていたんだと思う。で、A面の最後が《ピータールー序曲》。最初は結構カッコイイと思っていて、その曲が何となく記憶に残っていたが(たぶん大学受験の時買ったんだと思う)、その後「ちょっとクサイかなあ」と思うようになった。しかし、その数年後、ヤマハ銀座店の在庫一掃セールでスコアを見つけた時は、即座にに買ってしまった (^_^;; 。当時は、まさか吹奏楽で有名になるなんて、夢にも思わなかったし、「こんなの買うの、オレくらいだよなあ」なんて思っていたのだが。ちなみに吹奏楽版は、まだ聴いたことがない。

手元のデータベースを調べたら、このLPの番号は、ESD 10777801であった。イギリス舞曲以外はアーノルド指揮バーミンガム市交響楽団だったようだ。


01.12.21.

引き続き35セントLP。

モーツァルト 交響曲第39番変ホ長調 K. 543 イストヴァン・ケルテス指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 米London CS 6354(LP)

爽やかに威厳を持って、味わい深く。と書いてみたところで実態がよく説明できていない自分にいらだつばかりだ。とりあえず各声部が明確に聞き取れるところに感心し、旋律のしなやかな歌い方を堪能といったところか。ケルテスというのは、いい指揮者だったのだろうな。A面は第33番変ロ長調 K. 319。最終楽章のテンションの高さ、そして「音符の多さ」(!)といったら。スリリングな音楽を楽しんだ。エンディングもナイス。ノイズもほとんど入らない盤質も良好だ。ところで音色が暗めなのは、録音のせいだろうか?

モーツァルト オーボエ五重奏曲ヘ長調 K. 370 ジョン・マック(オーボエ)、クリーブランド管弦楽団弦楽四重奏団員 米Advent Records 5017

ジャケットにオーボエ奏者とヴァイオリン奏者のサイン入り。解説をクリーブランド管弦楽団の職員が書いているところを見ると、あるいはこれはクリーブランド管弦楽団のお店で入手されたものだったのだろうか。

前回のアンダのピアノ協奏曲のところにも書いたが、やはりバランスが気になる。この演奏の場合はオーボエばかりが聴こえてくる。弦楽四重奏の伴奏によるオーボエ協奏曲といった趣きだ。あるいはそういう曲なんだろうか? 解説にはコンチェルタントと室内楽の精神を両方受け持っている趣旨のことが書いてあるが、そういうことなのだろうか。それ以外の点ではそれなりにコクがあるが、シャープさが欲しいような気もした。B面のシャルル・マルタン・レフラーによるオーボエ、ヴィオラとピアノための《2つのラプソディー》は、印象派風の音楽が聞かれるが、ここではアンサンブルがより綿密になり、よりこなれているという印象を持った。


01.12.23.

The Art of Violin. "Great Performances." PBS (WFSU-TV)

すでに商用ソフトとして販売されているもので、指揮者・歌手に続く「The Art of」シリーズ第3弾ということなのだろう(ピアノのもあったっけ?)。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第1楽章を演奏した伝説的なヴァイオリニストの映像がモンタージュのようにつながれて始まるこのビデオは、パールマン、ギトリス、ハーンらのコメントをはさみながら、有名ヴァイオリニストを回顧する。時代とテクノロジーの限界もあるのだろうが、ショーマンシップを見せつける、ヴィルトーゾ的な作品が多めに見られるのが特徴か。映画やテレビが、どのような文化的背景を持っていたかが分かろうというものだ。コメントについては、さすが実際に楽器を演奏する人たちだなあと思わせるものもたくさんある。各奏者の音から得られる情報だけではなく、映像をつぶさに見て、いろいろタメになる批評が聞かれる。テクニック的にどういうものがあったのか、カリズマ的な要素はどうたったのか。

また、おそらくコンピュータを使ったと思われるのだが、古い映像と、それにマッチしたよりよい録音がある場合は、両者がうまくシンンクロナイズされている。もちろん録音の残っていないもの、映像の残っていないものもあるが、資料の古さをとやかく問題にすべきではないと思う。

また、内容的には、単に古き良き演奏家を懐かしむだけではなく、歴史の中で忘れさられてしまった若き天才ヴァイオリニスト(日本でハイフェッツに認められたが、ジュリアードで大成しなかった日本人のヴァイオリニストのことを思い出した。悲劇に巻き込まれたのは、彼だけではなかったのだ!)たちや、ヴァイオリニストと「名器」についての興味深い話もある。

オイストラフとメニューインによる、バッハの2台ヴァイオリン協奏曲は、火花が飛び散るようなすごい演奏なのだが、オーケストラがほとんど鳴りをひそめているのが印象的だった。前回私が「バランスの問題」のことを書いていたのだが、これだと、オケは完全に伴奏なのである。でも、耳(と目)はソリスト2人に釘付け。ここまでソリストが聴き手に訴えてくると、もうバランスなんて呑気なことなんか言っていられないということなんだろうか。瞬間瞬間で圧倒されてしまうようなところが他の演奏にもあって、つい引き込まれてしまう。

パールマンによると、かつては各ヴァオリニストに強い個性があり、誰が演奏しているかがすぐに分かったという。同じようなことを、指揮者について書いていた日本の評論家がいたような気がする(あれは出谷さんだったかな?)。これは裏返しに「今の人は」という発言になってしまう恐れがあるのだが、でもここに出てくるのは、みんな晩年の映像でもある。いや、若い頃から個性はあったと言われれば、それまでなのだが、現在の若手の演奏家に我々が求めているものは、ちょっと酷なのではないかと思うこともある。これから個性が出てくる人も、あるいはいるのではないか、もっと暖かく見守ってあげたらどうか、という気持ちも湧いてくる。若い頃はみんなヴィルトーゾの道を通っている訳だし(もっともメニューインが言うように、音楽性を身に付けなければ、ヴィルトーゾそのものに食われてしまうのかもしれないが)。

とにかく、映像の貴重さ、教育・啓蒙的な価値、そして良い音楽を堪能できる充実度を総合して、大変良いものを見させてもらったというのが、ざっと見た私の感想だ。ぜひ一度、機会があったらご覧いただきたい。


01.12.24.

イヴの今日は、夕方から教会でキャンドル・サービスを含んだ礼拝。クリスマス・キャロルを楽しく歌い、キリストの誕生についての説教も。日本だと商業主義やロマンスの色が濃いけれど、こちらはもっと真面目な感じ。家族で集まって静かに食事したり(私も礼拝の後はある家のパーティーにおじゃましてきた)、キリストについて考えたり。いや、もちろんサンタさんあり、靴下ありですけどね。

日本の恩師から電子メールが届く。先日『新潟日報』に投稿した記事が無事掲載されたとのこと。良かった〜。なかなか芸術に見識のある編集の方がいらっしゃって、こちらも随分気合いが入ってたからなあ〜。ラジオ番組も、2月分の〆きりが予告されたので、さっそくネタを考えたいと思う。それにしても、その恩師の息子さんはまだ中学生だというのに、来年の9月には小澤征爾と共演するくらいのチェリストになったんだとか。すげ〜。私の中学生時代は、学園祭に《トルコ行進曲》とか《エリーゼのために》とか弾いてた段階だもんな〜。う〜ん (^_^;;;;;

欲しかったバーンスタインの伝記/作品論と、パーシケッティの書いたウィリアム・シューマンの本が届く。


01.12.27.

今日もアメリカ人のご家族に食事を招待になってしまった。クリスマスは過ぎたけれど、クリスマス・ソングを即興で弾くと、みんな喜ぶ。結構テキトーで、プロの仕事では全然ないのだけれど、楽譜を見ずに記憶から弾くというのは、驚かれる。「どうやったらできるんですか」と尋ねられるけれど、こればかりはピアノと戯れるしかないというように、素直に本当のことを伝えておく。テクニックなんか、もうピアノを大分弾いてないから、ほとんどないようなものだし、ここは開き直って、昔ながらのパーティー・スキルのご披露ということにしておいた。

こういうピアノなら、楽しいんだけれど、ここからコンサート・ピアニストまでの距離というのは、大変なものがあるから。結局テクニックを身につけるだけで、ピアノというのは大変な時間がかかる。一曲を「指に入れる」だけでも、かなりの練習をしないといけないし。もちろん長くやればそれでいいという訳でもないけれど(耳が付いていかない場合も多いですからね)。


01.12.30.

とあるメーリングリストで、『レコ芸』における現代音楽が、今年特に低調だったという議論がある。CDが付き始める前から『レコ芸』を買っていない私には、最近の日本の雑誌がどうなっているのか、さっぱり分からない。私の恩師がアメリカで宗教音楽研究をしていた80年代なら、『音楽芸術』をはじめとして、日本の雑誌というのは、業界の動向を知る情報源として貴重だったと思うのだが、インターネットの発達によって、情報としては、かなりのものが得られてしまうのも確かだ。

私が読みたいのは、やはり批評かもしれない。どういった演奏家が最近どのように受け入れられているのか。文化振興はどのように行われているのか。そういったことである。幸い『Breeze』が時々送られてくるし、この批評紙の内容はとても濃いものなのだが、もっとこういうのを読みたくなってしまうのも事実。

ところで某掲示板を読んでいたら、朝比奈隆さんがなくなったという知らせ。朝日新聞にも記事が載っているが、体調を崩されていたというので、気にはなっていたのだ。私は彼の熱烈な愛好者とはいえないけれど、朝比奈さんというのは、私がクラシックにのめり込むきっかけにもなった人でもあった。まだ中学の頃だったと思うのだが、偶然に彼が大阪フィルと富山に来たことがあって(確か県民会館ではなかったかな?)、その時の《悲愴》の第1楽章に(お恥ずかしながら)涙してしまったのだ。記憶が確かならば、これが私の《悲愴》との最初の出会いでもあり、その感動が忘れられなかった私は、レコード屋でカラヤンのLPを買ったのだが、どうも満足できなかった(FMで聴いたライヴはそれよりも良かったと思う)。また朝比奈さんはNHKラジオでトークすることがあって、音楽の世界を知らなかった私は「メッテルニヒ先生」などの昔話に大いに感動したものだった。

大学学部時代になると、彼のブルックナーが、大学オケ連中の間で有名になっていることがあった。「へぇ〜彼ってそんな有名だったんだ〜」とその頃再認識することになった。しかし、ひねくれものの私はどうもファンの人たちについていけず、敬遠してしまっていた(ジェイガーの吹奏楽作品--第2組曲だったかな--を振ったのが入った東芝のLPは持っていたけれど)。

結局、以来彼を聴いたのは、昨年のNHKホールにおけるブルックナーの第4。原宿駅には「チケット売り切れ」の貼紙があり、彼も大変な存在になったんだなあ(いや、ずっと前からそうだったんだろうけれど)と思いながら、改めて彼の音楽に触れることになった。演奏そのものにはいろいろ傷もあったのかもしれないけれど、フィナーレ部分には底知れない感動を感ずることもあって、うれしかった。

私のクラシックへの導き役を果たしてくれた朝比奈さんに、心から感謝するとともに(もちろんチケットを手配して下さった方々にも感謝)、謹んで御冥福をお祈りしたい。


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