最近見たもの、聴いたもの(42)


2001年12月19日アップロード


01.12.14.

ヴァン・マッコイ(ビクター・エンタテインメント VICP-41124)Fania All StarsのSpanish Fever(米Fania FA35)が届く。そう、吹奏楽ではおなじみの《アフリカン・シンフォニー》と《スパニッシュ・フィーバー》を聴くためだ。前者はFM番組のテーマ音楽に使われていたことがあるので(たしかスポンサーがオーディオ機器のビクター)、吹奏楽外でも有名かもしれない。かつて大学オーケストラで施設訪問演奏をした時、ニューサウンズ版をオケにして演奏したことがあり(すいません、著作権所有者の方)、なぜかアンコールを受けたのもこの曲。《スパニッシュ・フィーバー》のアルバムはサルサなども入っていて、なるほどこういう文脈だったのね、と認識をあらたに。昔地元の富山商業高校のチョッパー・ベースをきかしたロック風の演奏も、めちゃめちゃカッコイイと思ったもんだけれど。あのころは、多くの中学生・高校生がラジカセ持って録音していたような気がする(私も録音テープを持ってるはず)。

いずれにせよ、どちらのアルバムも、クラシックが原音再生をモットーとしているのとは違った、人工的な音の世界。まあテクノロジーを使うとは、こういうことなのかもしれないなあと思いながら楽しむ。メイナード・ファーガソンのLP「ハリウッド」(日本テレビの高校生クイズのテーマ曲も収録)をこちらで見つけたときも、うれしかったなあ。しかし、妙なところでオリジナルにこだわったりする私ではある。

ピエール・モントゥー指揮/北ドイツ放送交響楽団による、モーツァルト交響曲第35・39番(LP、米Turnabout THS 65124)を流し聴き。どこかのサイトで名演だということで借りてきたはずなのだが、自分には際立ったものが聴こえてこず、情けない。


01.12.15.

公立図書館35セント購入LPから。

「舞踏への招待」:管弦楽小品集 アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団 米RCA Victrola VICS-1321 (e)(LP)

Weber: Invitation to the Dance, Op. 65; Brahms: Hungarian Dances Nos. 1, 17, 20, and 21; Verdi: Otello: Act III: Ballabili (Dances); Paganini: Moto perpetuo, Op. 11; J. Strauss, Jr.: On the Beautiful Blue Danube, Waltz, Op. 31; Tritsch-Tratsch, Polka, Op. 214; Waldteufel: The Skaters, Waltz, Op. 183; Berlioz: The Damnation of Faust, Op. 24: Rakoczy March.

レコード番号の (e) はおそらく疑似ステレオを表示するもの。トスカニーニの録音というのは残響が少ないとされているそうだが、それよりも、やや濁りがちな音色の方が気になる(録音技術の限界か)。演奏の方は、ワルツがいずれもテンポが早く、管弦楽のショー・ピースと割り切った感じ。特にウエーバーのワルツの終結部など、かなり吹っ切れたところもあり、ここまでやらなくとも、という人も、あるいはいるかもしれない。パガニーニ作品は、ヴァイオリン奏者の縦割りのアンサンブルが見事。ひとり一人が演奏できることはもちろん、ぴたっと合って旋律に崩れが出ない。聴いている方は、ハラハラしているところもあるが、それがこの作品を聞かせている要因なのかもしれない。最後のベルリーオーズも、やはりテンションが高く、燃えるような演奏。このエネルギーは大したものだ。

モーツァルト 協奏曲第17番ト長調 K. 453、21番ハ長調 K. 456 ゲザ・アンダ(ピアノ、指揮)モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ 独グラモフォン 138 783(LP)

アンダはDGに全曲入れていて、この2作品は、その中でも最も古い録音なのだそうだ。今有名な21番を聴いているが、ややオーケストラの主張が弱いように思う(第1楽章冒頭、第2楽章)。録音のせいでもあるだろうし、小編成のオケをつかっているせいでもあるだろうし(いや、これについては、ヒストリカルには正しいというべきなのか)。ピアノのアルペジオの部分が特に気にかかる(第1楽章の後半や第3楽章の一部は、良くなってきた)。

いや、私がモーツァルトの協奏曲に求めるものが間違っているのだろうか。ロマン派の協奏曲とはおのずから違ってくることは認識しているつもりなのに。もちろん決して悪い演奏ではないのだが、ピアノがやたらと大きな存在感を持っているところに疑問を感じ、オーケストラから導き出されるものをもっと期待しているだけなのだ。17番ははじめて聴いたが、案外後期以外の作品も面白いと思わせてくれたことは確かだ。

エルガー 《子供の魔法の杖》組曲第1・第2番 サー・エイドリアン・ボールド指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 英EMI ASD 2356(LP)

同時収録:Chanson de nuit, Op. 15/1; Chanson de matin, Op. 15/2; Three Bavarian Dances, Op. 27.
エルガーが晩年この作品に取りかかっていたとき、彼は精神的に落ち込んでおり、幼い頃の記憶が一種の「療法」となったと、楽曲解説に書いてある。ちょうど第1交響曲を書いていた時だそうだ。そういった自伝的な意味が、どう作品理解に影響するのかという難しい話はとりあえずおいておいて、単純に作品に耳を傾けるならば、純粋で無垢な音楽的瞬間を大切に暖めて編み直した管弦楽作品で、魅力的だと思う。エイドリアン・ボールドの音楽づくりによる功績も大きいのかもしれない。第1組曲の方が個人的には好きだ。同時収録曲はより軽めのアンコール風の作品だが、イギリス音楽を「シリアス」と「ライト」に分類することに意味がなかった最後の作曲家がエルガーではなかったか、と解説に書いてある。この種の分類の問題は、現在また戻ってきているようにも思うが。


01.12.16.

遊びでこんなMIDIファイルを作ってみる。後半がだんだんおかしくなってきているけれど、一発録りしたあとミスタッチを除いただけなので、ご了承を。知っている人は分かってもらえますよね (^_^) 。これが私の頭の中の、フィリップ・グラスのイメージ(偏見)。いや、好きな曲もあるんですけどね。途中で切れているのは、キーボード内蔵のメモリがいっぱいになったから。


01.12.18.

Wanda Landowska Memorial Edition (July 5, 1879--August 16, 1959) 米RCA Victor LM-2389(LP)

彼女の《イタリア協奏曲》を聴いた時、その重厚な音にやや驚き、近年のピアノの方が、むしろ軽くて良いように思ったものだが(グレン・グールドの影響力が大きかったんだろうか)、このLPに収められているバッハのインヴェンション、シンフォニアでは、それもあまり気にならず、独特の気品さえあるように聴こえたから不思議だ。A面の最後には、インヴェンションについてランドフスカ自身が語っているのが短く挿入されている。独特のアクセントのする英語で、誰かがかなり手を入れた感じの原稿だと思ったが(自分の英語力はおいといて)、内容的には、おそらく啓蒙的な意味合いがあるのだろう。インヴェンションやシンフォニアは「練習」ではないというのは、確かにその通り。もちろん技巧的に弾きやすいのは確かだけれど、個々が作品として面白いはずだからだ。私個人の音楽歴の中では、はじめてのポリフォニー音楽ではなかったかと思う。よく見たら、インヴェンションの方は別のLPも持っていたんだなあ(LM-1974)。まあ、これらも各35セントだったからいいか。

今日は教授と会おうかとも思っていたが、読み返してみると、引用の不適切な箇所があるので、再考することにした。また、章の結論部分ももう少し練り直したいので、もう少し時間をかけようと思う。本当は昨日やろうと思っていたが、アメリカ音楽史の他の資料集めをしてしまい、時間がつぶれてしまった。

そういうことで、図書館の奥にしまってある資料から、アーサー・フットの《夜の音楽》の楽譜を出してもらった。音源と一緒に追ってみると、なかなかの秀作。この時代の音楽というのは、ついヨーロッパの作曲家と比較して、「アメリカの○○」と言いたくなってしまうのだが、そうすることが、結局はアメリカの作曲家にとっては不幸だったかもしれないと思い始める。もちろん20世紀に入って自国の音楽を確立させたいという思いは高まった要因には、そういった批判的な視点があったんだろうけど、一方でヨーロッパ風の音楽を書くことに、あまりにも批判が強いようにも思うのだ。「日本の音楽」の授業で山田耕作を聴いた時も「スクリャービンだ」とか、その後の深井史郎とか伊福部昭とかも、「これはヨーロッパの作曲家でいうと」という発言があったように思う。

これは作風理解を助ける手段としては有効なものだけれど(音楽様式を指す用語の機能も、これに似ている)、一方で個々の作品・作曲家の個性を犠牲にしているところがあり、難しいものを感じた。

資料としては、その他ヒューイットの《独立記念日ソナタ》、ルディヤーのピアノ作品、ハンソンの第4交響曲などを閲覧。

ブフステフーデ 5つの宗教カンタータ ヘルムート・クレブス(テナー)、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、カール・ゴルヴィン指揮ベルリン・バッハ管弦楽団弦楽セクション他、独アルヒーフ ARC 3096(LP)

昔、ヨハン・クリストフ・バッハの結婚カンタータを主題にレポートを書いた時、教えてもらって聴いたのがブクステフーデの一連のカンタータ。様式的に、こちらから受け継いだものが多いということだった。今改めて聴いてみると、妙に純朴でほっとするものが多い。編成的にも小さいし、これなら割と短期間の間でも書けそうだ(というと、ブクステフーデに失礼だろうか。決してだから作品として悪いと言っている訳ではないのだが)。


01.12.19.

森啓編著『文化ホールがまちをつくる』(学陽書房)を読みはじめる。以前に、東海大学出版会から出た、芸術経営学講座の音楽編を読んだことがあるが、どうも内容が抽象的で、「では具体的に何をすべきなのか」というのが、今一つ見えてこないという印象を持った(シリーズ・タイトルの「学」を取れば、その基本方針が変わったのかも)。なるほど東京にある一オーケストラの予算が数字を持って「具体的」に示されている。でも、それらを一体どのように見るのか、学んで行く方としてはちょっとつらい。また、日本の現状に問題があるのは間違いないのだろうが、実際の振興活動をどのようにしていけばよいのか。どのようなケースがいままであったのか、どうもその辺がはっきりしない。精神哲学のようなものは、そこここに読み取れるのだが(アメリカのmusic administrationの実習のケースには、それなりに興味を持った)。また、内容が大都市中心になっているのも、今日的な意味では、やや不足という気もした。

しかし、この芸術経営学シリーズそのものはパイオニア的であり、これを土台にどのように発展させるかが、今後の課題となるはずであり、私はそのことについて書きたかっただけだ。また、裏方によるチラシ作りや新聞の広告打ちなど、広報の重要さを書いてある箇所はためになった。

さて『文化ホールがまちをつくる』だが、タイトルがちょっと気になると言う人もあるいはいるのかもしれない。近年これだけ地方自治体の「ハコモノ行政」が口やかましく批判されているのだ。まさか「文化ホールがまちをつくる」というのを、これまでの公共施設とゼネコン的な考え方で書いたのではあるまいな、と思わせることは確かである。

しかし本書は、文化ホールを作る前にいろんなことを考え、話し合いの機会を持つべきことを提唱しているし、それがうまくいったところは、ホールが文化をリードする存在として誕生するのではないかというアイディアを持ち込んでいるように思う。もちろんハード自身が地域文化の認識を高めることは間違いない。一方で、例えば地域の文化の自立を促進し、その土台からホールへと進むべきであるとか、輸入・発信といった、外への視点ではなく、まず地元といったことも書いてあり、私はその考え方に強く共感する。

繰り返しでてくるテーマとしては、大は小を兼ねない(大きいものをとりあえず作ればよいというものではない)、多目的ホールは無目的ホール、専門家をホール建設・運営に参加させることなど。地方で行われた事例も多く引いてあり、関心が持てる(実際はいろんな苦労話や失敗談もあるだろうから、そういうのも現場から聞きたいものだ)。いろんな奇抜なデザインのホールが日本各地にできのも、挿入写真で見ることができる。すっかり私は浦島太郎状態。

大学の授業では、ぜひこの本(そして芸術経営学講座のも)を教科書にした授業が行われるべきではないかと、私は思った(いや、すでに行われているだろうが)。

話は全然かわる (^_^) 。なぜかここには吹奏楽のカセットがあって、1986年にNHK放送からエアチェックしたテープを取り出して聞いている。空軍の《フェスティヴァル・ヴァリエーション》(やっぱすごいな〜これ)、ネリベル/スウェアリンジェン作品集(すごい組み合わせだ!)などなど。《トリチコ》、フェネルの演奏は、テンポ設定がレヴェルと違うんだけど、スコアにはどう書いてあるんだろう。う〜ん、スウェアリンジェンも、たま〜にきくと楽しいなあ。


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