最近見たもの、聴いたもの(41)


2001年12月12日アップロード


01.12.4.

明日は論文の主任の先生に会う予定なので、ワープロ・ソフトに向かう。一方で、ネットサーフィンも。最近はクラシックの情報も溢れていて、自分をコントロールできなくて困る。常にアップデートしておかないと、という不満が、よりそうさせるようだ。ビデオもいろいろ買ったのだが(怪しい通信販売から20世紀もののオペラも買った)、見る機会がない。Naxosからでたアンタイルの《バレエ・メカニーク》や、同曲の1924年版も買ってないしなあ。そうそう、これを扱ったサイトにアンタイルのインタビューの音声があって面白かった。両親に本物のピアノを買って欲しかったのに、当時流行していたトイ・ピアノをクリスマス・プレゼントとしてもらってしまって、その場でこなごなに破壊したというエピソード。本人が言うように、これがその後の彼の将来を暗示していたのかも。


01.12.11.

今日まで私の友人がうちに泊っていたのだが、彼はコンピュータ関係に詳しい男で、(私にとっては)最近話題になっているMP3について教えてくれた。ファイル・シェアリングの機能を使って、他人のコンピュータからMP3をはじめ、いろんなファイルを入手できるソフトを紹介してもらう。もちろんこれはすべて法に抵触することなので、ここで詳しく触れることはしないが(おそらくこれをお読みになっている方はご存じではないかとも思うし)、私にとっては、ようやく、世間で騒がれているネップスターが何であるかが分かったということで、よい刺激になった。今現実に公開されている映画でさえビデオのファイルとして入手できるというのだから、これは恐ろしい時代だ。私にとっては、これによって買うCDを買わなくなるかというと、そうは思わないのだが、全く影響がないというのも、ウソくさい。

数週間前の公共放送でも、これからCDが売れなくなり、将来的にはダウンロード・システムが広まるのではないかという話題があった。まだしばらくはそうならないと思うが(クラシックの場合、作品も長いし)、消費者側としては、例えば廃盤になった音源がオン・デマンドで配給されると、本当にありがたい。学術用ならばもっとオープンにしてもいいような気もするし(例えばアメリカの議会図書館のように)。一方ストリーミングによるラジオ放送はすでに広まりつつある。もちろんこれもCDの商売を邪魔するというよりも、プロモーションとして機能するとは思うが。

そういえば、学術研究に雑誌記事・論文で学校にないものは、大学図書館がコピーを取り寄せてくれたものだが、最近はそれもコンピュータ上で閲覧するシステムができている。電子メールで知らせがきて、指定されたサイトに行くと、パスワードを入れる画面が出てきて、パスワードを入れるとお目当ての雑誌記事が見られる仕組み。これは図書館が私にいちいちコピーを郵送しなくていいという点で、経費の節約にもなるのだろう。

ベルリン・フィル創立100周年を記念してグラモフォンから出たLPのうち、もっとも古い録音を集めた5枚組を聴きはじめる。最初を飾るのはアルトゥール・ニキシュのベト5。1913年11月10日のアコースティック録音。気のせいか編成がフル・オーケストラではないように聴こえる。ヴァイオリンのソロがやたらと聴こえる箇所もある。独特のポルタメントもあり、「ああ、これが19世紀のスタイルだったんだろうか」と思わせる。おそらくいろいろな技術的制約があって、かなり実演とは違うのではないだろうか。この指揮者の他の演奏も聴いてみたいところだ(残念ながら、大学図書館にあるのは、この録音のみ)。レコードB面は1920年の録音で、リストの《ハンガリー狂詩曲第1番》とベルリオーズの《ローマの謝肉祭》序曲。おそらく家庭でレコード鑑賞を楽しむ作品としては、この辺りがふさわしかったのだろうな、と考えながら聴く。ベト5と違って、こちらの方はかなり自然にオーケストラの演奏として聴くことができる。それでも編成は小さいと思うが。レオ・ブレッシュ(1871-1958)からは《ジークフリート牧歌》が収録されている。残念ながら、これを聴いている時に電話が鳴ってしまったので、詳細は割愛。

ブルーノ・ワルターでは《コリオラン序曲》と《フィンガルの洞窟》が収録されている。やはりオケの響きがやせているけれど、音楽の芯がしっかりしているので安心して聴ける。よく言われる「暖かさ」とかいう質とはやや違うようにも思われるが。クナッパーツブッシュのワーグナーになると、1928年という録音年代もあるのか、かなりオーケストラの響きに自然さが出てくる。それと同時に、スケールの大きさが格段に感じられるのは、おそらく彼の音楽作りにもよるのだろう。決して弛んでいるという訳ではないのだが、力みが全く感じられないところも、これらの演奏の魅力といえるだろうか。ただ、仕上がりには出来不出来があるように思う。オスカー・フリードの1928年の録音になると、レパートリーのせいもあるのだろうが、かなりモダンな響き。それにしてもこの《火の鳥》、<カスチェイ>以降のツナぎが自由になされていて、オーケストレーションにも若干手が入れられている。ちょっとびっくり。

その他このセットには、初めて聞く名前の指揮者も収められていて大変勉強になる。解説は、100年記念としては、ちょっと寂しいような気がする。最も今日ではファンによるサイトが多くあるので、情報には事欠かなくなってきているだろうけれど。

そういえば先日買った『Fanfare』誌に、例のグラモフォンによるウェストミンスター復刻の記事が載っていた。それによると、DG主導による復刻の内容は日本の進め方とは違うものになるだろうとのこと。日本の方が復刻に関してはずっと先を行っていて、ウイーン出身の音楽家に対する独特の嗜好があり、それは世界の他の地域とは違うということだからだそうだ。またこの記事では、クナのブル8が、随分厳しく批評されていたのが印象に残った。カラヤンやジュリーニに比べて「意志の弱い」演奏であり、今日の聴衆にはウケないのではないかとのこと。日本ではクナのブル8といえば特別な扱いを受けているから、これはショックな記述ではないだろうか。


01.12.12.

ベルリン・フィルのセット物、フルトヴェングラーの6枚組を聴きはじめる。シューベルトの《グレート》(1951年)。天国的な長さなんていわれる曲だけれど、こと第1楽章などテンポ設定がうまく、全体として良い割り振りになっていると思う。序奏部分が遅いのでびっくりしたが、それからあのコーダ部分はちょっと想像できない。もちろん情熱的な面も聞き所だが、知的な構築力も背後にしっかりありそうだ。第2楽章なんかも、とても意味深長な結末を感じ、通常感ずるラプソディックな一面だけでは、この楽章がつかみ切れないことを感じさせた。後半楽章も、こんなにいろんなものが隠れていたのだろうか、と思わせた。素晴らしい演奏!

音楽を理解するとはどういうことか、などという深遠な問いに答えられるほど私は音楽について哲学していないが、それにしても、楽譜から得られる情報を、これだけ楽譜の存在を感じさせずに堪能させる演奏をするには、音楽を自らのものとしていないと、どうしてもできないのではないだろうか。そしてそこに、私は音の脈動を感ぜずにはいられない。実演でもなく、もう4、50年も前の録音のはずなのに、なぜ自分はこんなことを考えているのだろう。

ハイドン(88番)やモーツァルト(39番)は、やはりピリオド派に好みがいってしまうが、この時代の指揮者は堂々と演奏していて、それはそれで、一つのあり方だろう。近年はピリオド楽器の台頭で、古典派がやりにくくなっているが、そういう時は、こういった原点に戻るべきか、ピリオド楽器に沿うか、あるいは全く新しい方向性を探すしかないのだろうか。おそらくピリオド楽器の影響は免れまいだろうから、私はそれに基づいて、新しいものを考えた方が良いと思う。ちなみに個人的には、コリン・ヂイヴィスのハイドンがモダンでは好きだったりする。

それにしても、ベルリン・フィルの機能性も随分上がったのだろうなあ。前の初期録音集と比べると、ぐっと安定していいるように思う。


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