最近見たもの、聴いたもの(36)


2001年10月19日アップロード


01.10.13.

モーツァルト ピアノ協奏曲第26番イ長調K. 537《戴冠式》 ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、フリッツ・ザウン指揮ベルリン国立管弦楽団(1940年録音) 米The Piano Library PL 338.

バックハウスのバッハを以前聴いたことがある。いわゆる音楽演奏法的に正しいとか正しくないとかといった問題はおいておこう。バッハにあるべきと思う端正さが、近代のピアノをもって充分に表現されていて、満足できたからだ。このモーツァルトにしても、核心の部分はまぎれもないモーツァルトに聴こえるし、それが極めて自然な形でオーケストラと融合している。同時収録されているグリーグの協奏曲とは明らかに音色もフレーズの取り方も違う。おそらくモーツァルトの方が、よりかっちりとした拍節作りをしているといえるし、微細で線的な要素を忘れずに弾いているからではないだろうか。ピアノが不思議と大鳴りしないのは、単に使われている音域のせいだけではあるまい。楽譜から得られるものを、与えられた楽器で最大限に引き出す。おそらくそれが、演奏家に求められることではないだろうか。


01.10.15.

論文の一部を昨日の夜から続けて朝の6時くらいに仕上げる。昼と夜が逆転の世界。朝は車が故障したという友人を助けて、それから学校に論文の一部をプリントアウトして届ける。明後日、どういうコメントが返ってくるだろうか。それから、つい昼寝。こういう生活になると、昼はてんでダメである。夜はこの秋セメスターに学校の歌劇団が公演するモーツァルトの《魔笛》のCDを借りてくる(ノリントン盤)。Dover版の実用スコアを眺めながら通して聴く。本番の方では、セリフは英語でやるそうだ。ちゃんとした歌劇団ならおそらくドイツ語でやるのかな。でもそれは、こちらの学生にとってはしんどいのかもしれない。客層的にいっても英語でやるのは正解なのかも。ノリントン盤のは、雷の効果音のすごさにまず驚く。おそらく後で入れたんだろうけど、びっくりした。Amazon.comの購買者の感想欄には、歌手の英語訛りが指摘されていたけれど、まあ、対話の部分はある程度、しかたないのかもしれない。クリスティー盤が評判もよさそうだし、今度買ってみようかと思うんだが(クレンペラーのも有名だそうで)、そっちはフランス訛りなんだろうか?

その他マゼール/BPOの「歌なしの《指輪》」(米テラーク)。ベルリン・フィルの頑張りがなんといっても面白かったし、それがマゼールというのがちょっと意外。私はあまり好きな指揮者ではないので。やはり全曲を知っている人間にとってはあまり用のないCDなのかもしれないけど(肝心の声も入ってないし)、入門用としては良いのかな。


01.10.16.

JON (犬) 「ジョンの黒いツブ」 日Augen ME-006(VHSビデオテープ)

最近は狼のぬいぐるみを着ていると聞くが、このビデオに収められているのは、犬のコスチュームを着ている時代のJONのライブ。大阪ベアーズにおける収録で、時々自宅(?)の風景が挟められていたり、オマケ映像としてアメリカのドッグボウルとの飛び入り共演のようなものが収録されている。

JON(犬)は犬のコスチュームを着て(あのデザインは、正確には牛の紋様だと思うが、それはおいといて)、犬の視点で歌を歌う。その歌声はまるで子どものよう(小学校にも入ってないような子どもの声だ)。「我が輩は猫である」ではないけれど、そこには独特の世界観が広がっている。だがそれは、決してその小説のような皮相な人間描写ではなく、おどろくほど素朴な動物と人間の世界。

筆者は数年前、地元大学のラジオで偶然にこの歌声に触れ、いっぺんに好きになってしまった。一体誰が歌っていたのかは知らなかったが、ののさんがアーチスト名を教えてくれて、今日に至っている(?)。純朴の世界はまるで子どものようなのだが、よくよく聞いてみると、かなり練りの入った音楽づくり、詩的な世界が繰り広げられていて、その手強さに、アーチストに対する謎は深まるだけだった。

もちろんこのビデオを見ても、その神秘は深まるばかりなのだが(?)、ライブハウスで足踏みオルガンにを鳴らしながらマイクに向かうその姿は、コスチュームと実際の音を除けばシンガーソングライターとあまり変わらない。しかし実際にテレビのスピーカーから出る音を聞くと…そのギャップがすさまじい。《ドタ犬ってなーに、ドラねこってなーに》におけるカメラ目線などは、彼女がなかなかしたたかなパフォーマーであることさえ感じさせる。のこぎりを使った、ライブの最後のキレ方も絶好調だ。

こういう既成の概念では捉えにくい音楽は、ドッグボウルのギターとは次元がまるで異なって聴こえる。やはりギターは簡単に三和音がでてしまうからか、どうしても、JONのオルガンのようなアナーキーさが出ない。左手のスライディングや叫びだけでは、どうしても犬にはなれないのだろうか。でも、そんなことはどのくらい構っているのか分からないこのJON(犬)には、魅力を感ぜずにはいられない。OZ Discのファーストアルバムも、これから聴いてみようと思う。このビデオはオススメ。

参考サイト:オルガン弾きのJON(ジョン)


01.10.17.

論文担当の先生2人に会う。午前中に会ったアイヴズ専門の先生には、論文のプリントアウトがうまく届かなかったようで、その場でちらっと見てもらった。最初の7ページを読んで、よくまとまっていたとほめてくれたので、うれしかった。ただ後半はまだまだなので、それを一応ご忠告申し上げておいた。午後会った主任の先生、夜型人間の私は目玉を開いているのがやっとの状態で、大変申し訳ないことをしたと思っている。結局練習室でその後1時間ほど爆睡してしまった。それから友人の車が修理されたというので、修理工場に連れていき、教会で聖歌隊の練習。もう疲れた。でも、明日はラジオ番組をやらないといけないなあ。


01.10.18.

論文はちょっとお休みして、ラジオテープの作成。今回のはカーペンター、チャドウィック、プロイヤー、クレストンの4曲。詳しい内容は、後のお楽しみ(というほどのモノもないか (^_^;; )。

日本から届いた『Breeze』を読む。園田高弘さんのインタビュー(第44〜45号)は刺激的だが、その中でも、現在の日本の指揮者の中に「鏡を見ながら踊って、レコード聴いて全部暗記」している人がいると知って驚いた。国際コンクールに合格するレベルならば、そういうのはおそらく通らないだろうし。しかし、「音楽家と言えるような教師」が必要というのは、分かるような気がする。私は音楽学を勉強しているけれど、心は常に音楽家でありたいと思っているからだ。そんなの当たり前じゃないか、と怒られそうではあるが。

大学の副科のピアノの先生、実は地方大学という事情もあってか、私の場合は音楽学の先生だった。しかし、彼のレッスンは大変タメになったし、事実テクニックも上達した。彼が実際ピアノで実際に弾いてみせることは(ほとんど)なかったが、きちんと自分のやっていることを聴くこと、音符をしっかり手に入れること、この2つを学んだだけでも大きな収穫だったとおもう。自分の音を聴いてない演奏家というのが、これ以降なんとなく分かるようになったから。

武蔵野市民文化会館の栗原一浩さんのインタビュー(第45号)も面白かった。聴衆が何を探しているかを知るには、自らが良き聴衆とならねばならないという。しかし、なかなかその良き聴衆たるのが難しいのだ。やはりそこが彼のすごいところなのだと思う。情熱も実力も両方あってこそのものだろう。あとは実践力だろうか。

それにしても、コンサートに行く人は「会場で配られるチラシと音楽専門誌」しか見ないのか。なるほどなるほど。でも、チラシはジャンル横断型の情報にはつながりにくい。国立劇場の邦楽関係の公演の情報については、私はいつも『朝日新聞』を頼りにしていた。ポピュラーの連中は『ぴあ』とかなのだろうか?

中川滋さんの、地方の音楽文化に関するレポート・考察(46号)にも共感。そう、東京だけが文化の発信地ではないのだ。


01.10.19

「欧米」とひと括りにされがちな音楽家のレベルについてだが、私の友人の京都芸大の出身のピアノ科学生にいわせると、アメリカのレベルは総じて低いそうで、ジュリアードに行く学生でも、京芸では普通くらいだという。うまい連中はみなヨーロッパに行ってしまうのだそうだ。特にこういう地方大学だと、ついついうまい奏者入りしてしまうので、自分を甘やかせないように注意したいと言っていた。また、アメリカは教え方がやさしいので、自己中心・自己満足型になりがちとも。

公共放送ではビリー・ジョエルの最新アルバムからのワルツが流れる。オイオイ、これは19世紀ピアノ・ソロ曲にクリソツじゃないかよ〜。特にシューマン/ショパンに近いかな。かなり驚きました。これ、楽譜になったら面白いかもよ〜。


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