最近見たもの、聴いたもの(35)


2001年10月12日アップロード


01.9.20.

リヒャルト・シュトラウス 交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》作品28、交響詩《ドン・ファン》作品20 小林研一郎指揮ブタペスト放送交響楽団 フンガロトン(ハンガリー)SPLX 11874(LP)

オーケストラのダイナミックな響きに圧倒されることが、こういった作品の醍醐味なのだとすると、このゆったりとしたテンポによるおとなしい鳴りの演奏は、不満に思われるのかもしれない。テンポを遅く設定することによって、そこに情感をたっぷり練り込ませる可能性は充分あると思うのだが、それならもっと徹底的にドラマを彫啄する方向に持っていくべきでろうし、両交響詩の気ままな側面をだすのなら、もっと違った鳴らし方があるように思う。着実なオーケストラの技術というのは、確かにそこに聞き取れるのだが。

録音にはドルビーAが使われているとあるが、筆者には、どうも団子状の音響に聞こえてしまう(01.11.18.訂正)。


01.9.29.

ブルックナー 交響曲第7番 ホ長調 オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団 米Angel 3626 B(LP)

吉田秀和全集第5巻に書いてあるエピソード、ならびにそのネタ元のショーンバーグの本を読むと、クレンペラーの生涯が、いかに、音楽以外の面では不遇であったかが分かる。しかし大切なのは、それにも関わらず、彼が曲がりなりにも指揮活動を長く続けてきたこと、そしてそれが認められたことだろう。彼個人の気質・性格的問題は、楽団員たちの間で語り継がれてきたのかもしれないが、聴き手の方は、実際に出てくる音の方に、やはり関心があるといえないだろうか(そうであるからこそ、彼の人となりにも興味が出るというものだろう)。

クレンペラーの録音を多くは知らないのだが、吉田のいう「現実離れ」した感覚というのは、良い意味で、ブル7の前半楽章に顕著である。また、楽器の分離感が爽快なのも面白い。それが、単に「重厚」という言葉では表せない透明感になり、例えば一般に言う「ドイツの名指揮者」たちと違った、彼の特質なのかもしれない。しかし、きっちりとした鳴り方がなくなる訳ではなく、フィナーレなどは、芯の強さが共感を呼ぶ。

モーツァルト ピアノ協奏曲第17番ト長調K. 453 マリー・ペライヤ(ピアノ、指揮)、イギリス室内管弦楽団 米CBS Masterworks MK 36686

弾き振りしたモーツァルトの演奏は前にも聴いたと思うのだが、ペライヤのこの録音は、かなり良質のもののように思う。ピアノの技巧が安定して、粒よりの音に感心。第1楽章など、オーケストラが単なる「伴奏」に陥らないところも好感が持てる。品の良さと力量、冷静な構築力と臨場感、そういった言葉が浮かんできた。


01.9.30.

ベートーヴェン 交響曲集(第4、5、6、7) ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 米Music & Arts CD-824

CD1枚目の第4と第7では、第4の、特に第1楽章前の属調に入る部分のオーケストラの轟(とどろ)きに圧倒され、その後の流れにぐいと引き込まれた、いや呑み込まれてしまったというべきだろうか。この心理的な駆け引きのうまさは第7でも同じように聴かれ、切迫した音楽に乗せられてしまう。「The Art of Conducting」というビデオで彼の指揮ぶりを見ることがあったが、無駄のない動きで、こんなにもオーケストラを引っぱっていくことができるのかと驚いたものだ。おそらくこういうことは、指揮者と楽団員の強い信頼関係があってこそ成りたつとおもうのだが。

2枚目は第5、第6。作品番号が1つしか違わない2つの全く性格の異なった作品。フルヴェンといえば、例えば1947年のライブほどの激しいテンポの変化やフェルマータの延ばしはないが、それでも第4楽章のクライマックスの作り方はさすがだ。これほど彫りが深く、かつ熱のこもった演奏ができる指揮者はそういないだろう。第6《田園》も、その劇的な音楽作りに感動するが、ブルーノ・ワルターのようなイメージで作品をとらえると、多少窮屈に感じられるのかもしれない。個人的には、この2つの交響曲が同じ時期に書かれたということに、何となく納得してしまう演奏であった。しかし、リバーブとイコライザーを使った「音質改善」は、やはりアメリカ的発想なのだろうか。


01.10.1.

ブラームス 交響曲第3番ヘ長調作品90 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1956年録音) 伊Arkadia CDGI 724.1

第1楽章の出だしのテンポに一瞬とまどったが、演奏が進むに連れ、自然なものに聞こえてくる。クナッパーツブッシュのテンポの不思議さが、こういうところにあるような気がする。そして、今日のブラームス演奏にややもすると見られるような、何とも言えない気恥ずかしさのようなものがないのが、この時代の指揮者たちの凄みであると思う。作曲者の意図とは何か、実際にはこのつかみ所のないようなものを、あらん限りの想像力と創造力で考え、オーケストラとともに、生きた音楽とする。自分こそが音楽を、この瞬間につくり出しているのだという実感が、ふつふつと伝わってくる。

「今、こんなタイプの指揮者がいない」と嘆くのは簡単だ。ではどうすればいいのか。生でこういう演奏がうまれる土壌とは。聴き手には何が必要なのか(すべて演奏家のせいにすべきなのか???)。考え込んでしまった。


01.10.3.

シェーンベルグ 弦楽四重奏曲第2番作品10、第4番作品37から第1楽章 アルディッティ弦楽四重奏団 仏Auvidis Montaigne MO 782024

不協和音の多さが音楽の新しさに比例するのなら、第4(1936年)は、第2(1907〜8年)よりも新しいということになるのかもしれない。だが旋律の書き方、リズムの配置法によるフレーズの形は、どうも第4の方が古めかしく響く。「調性の破壊」が新しいことであるのだろうが、それ以外、何が根本的に変わったのかを考えることが、おそらくその後のセリエリズムにつながっていったのだろう、音楽の要素(パラメーターという用語が好んで使われる)を分解して。 .

しかし、作品の新しさやオリジナルさは、そういった要素が独特に複合してできるもの。また複合のさせ方は、いくら作曲の骨組みや規則を学んでも分からないことが多いのではないだろうか。結局のところ、作曲家一人一人が、過去の実例から盗み取って取り込み、自分なりのやり方を作り上げていくしかないのかもしれない。そうやって作られた自分なりの音楽の総体こそ、他人には直接伝えられない作曲法の極意ではないだろうか。あ、しかしこれを言ってしまうと、「音楽を語るには音楽をもってせよ」ということに還元されてしまうのか…。


01.10.5.

CDやビデオにより、過去の音楽遺産がこれほども豊かに蘇ってくると、今日の演奏家に注目しなくなってしまう。しかし、過去の名演奏家も、おそらく長い間力を積み上げる期間があったはず。いつも最高に磨き上げられた完成品だけを聴いていると、聴き手がこういった音楽家を暖め育ててきたことを忘れてしまい、実際の音楽活動が停滞してしまうのではないだろうか。いや、CDの売り上げにそれが反映されるはずだ、と言われるかもしれない。しかし、現代の巨匠たちを掘り出そうとする努力がどのくらい行われているのか、心配になってくるのも確かではないか。名曲○○選という企画をする雑誌は多いと思うのだが、できればここ10年の演奏家に絞って、こういうのをやって欲しい。次世代につながるものがないと、新しい録音は永遠に売れないのではないだろうか。


01.10.8.

今日は11時から論文の指導教官に会う。論文を丁寧に直してくれて、本当にうれしい。しかし私は前日の夜9時から寝ていないので、今日はまだ10時前だが、寝てしまおう。とりあえず、ストラヴィンスキー自演による《エボニー協奏曲》(米ソニー)を聴く。以前デジタル録音によるウッディ・ハーマン楽団による演奏(確か米RCA)を聴いたのだが、どうも閑散とした鳴り方の方に関心がいってしまって、作品に入り込めなかった。この自演の方は音がきっちり詰まったかのような印象を持ったし、不思議と楽しめた。クラシックのビート感もしっかり持っていた方が、この作品にとってはいいのだろうか?


01.10.9.

やや疲れぎみで論文の方に手がつかない。昨日直されたところに、少しずつ手を付け、さらに深い考察に入ろうと思う。『Breeze』の連載のネタも考えたいところだ。

ショスタコーヴィチ 交響曲第7番《レニングラード》第1・第4楽章 セルジウ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 米Classica d"Oro CDO 1029

以前からオペラの歴史的ライブ録音を安価で売り始めたOpera d'Oroの製造元Allegroが、今度はオペラ以外の録音にも進出。昨今の日本の海賊盤ブームや、欧米での歴史的録音の再発(海賊盤・正規海賊盤・正規盤など、いろいろ)、ナクソスの歴史的録音分野進出など、音楽ファンにはまたとない宝の噴出に、目をみはるものがある。

このチェリビダッケのショスタコ7番は、ベルリン・フィルのライブで1946年の録音。DGのシュトゥトガルトの演奏を聴き始めていて、この異様な鳴りは録音のせいなのかと思っていたが、同じようなことがこのCDにも感じられるので、やはり指揮者の能力なのかな、と思った。録音はあまりよくないし、第1楽章のマーチの冒頭では音がいくらか飛んでしまっているが、生演奏のエッセンスが不思議と感じられ、作品の面白さ(の一部)を堪能できたと思う。何と言っても高揚感の引き出し方がうまい。


01.10.11.

チェリビダッケのブルックナー(DGのシュトゥットガルト放送交響楽団の録音)、第3番の第1楽章を聴く。テンポが極端に遅いが、しっかりとした足取りを感じるという方向になっているとは思う。また、オーケストラが本当に気持ちよく鳴る。音色が美しいのかと問われると即答できないが、そういった技術的問題ではなく、作品の重要なポイントでいかに出るのかということではないかと思う。

シューベルト 弦楽五重奏曲ハ長調作品163(D. 956)ヤッシャ・ハイフェッツ、イスラエル・ベイカー(ヴァイオリン)、ウィリアム・プリムローズ(ヴィオラ)、グレゴール・ピヤティゴルスキー、Gabor Rijto(チェロ) 米RCA Victor 7964-2-RG

以前アルバン・ベルグ四重奏団で聴いた作品だが、RCAの硬質な録音がちょっと気になる。演奏は、だからとても張り裂けたエネルギーの高いものに聞こえる。マイクが近いためか、弱音があまり生きないため、ダイナミックスの効果が薄れているように思われるし、強奏では、音場の近さと距離感を感じさせる反響音との差にアンバランスなものを感じる。

合奏上の問題は、低弦の主張の弱さだろう。いや、上声部があまりにも前に来すぎてしまうからか、演奏スタイルが根本的に違うからだろうか。第4楽章になると、これが特に耳に入るようになる。旋律の絡みという概念が薄れてしまうのだ。

66分の収録時間のうち、最後の5分半あまりの《アヴェ・マリア》の録音が、妙に耳に心地よい(軽いエコー処理あり)。


01.10.12.

San Francisco Premiere: A recital works by Bach, Messiaen, Dupre, Widor, & Franck. Michael Murray, organ. 米テラーク CD-80097

前半はバッハのコラール前奏曲7曲と、前奏曲とフーガハ長調BWV. 545、後半はロマン派とメシアンの、よりコンサート風な作品。全体に瞑想的で静かな作品が多く、たっぷりとしたペダルの低音と、透明で柔らな旋律を聞かせている。メシアン(Dieu parmi Nous)は、鮮やかな音型と壮大なオルガンの響き、そしてメシアンらしい和音が印象的。フランク(Final in B-flat, Op. 21)はコンサートを締めくくるかのような、堂々としたファンファーレ風の作品。しかし即興的な展開もたっぷりあり、技巧の確かさを感じさせる(約11分)。

マレーの演奏だが、音色の選び方に一定のセンスを感じるが一方、もっと活気があったなら、と思った。単に静かな音の中に身を投射するだけでなく、何かしらの問いかけが欲しかった。しかし、結果としては、テラークの録音の良さに耳をとられた形になった。

雑誌『FM fan』が休刊になると知ってびっくりした。存在感の薄さは感じていたが、まさかこんなに早くとは。単に昔、自分がエアチェックをやっていたというだけでなく、これからこういったメディアで音楽に入っていく人の可能性もなくなってしまうことも考ると、残念でならない。また、今ラジオで流れている曲は何か、また、これから流れる曲は何か、それらを細かく追うことができた雑誌は貴重だ。NHKはウェブで番組表を流すのかもしれないけれど、やはり印刷媒体はコンピュータを立ち上げてネットに繋ぐ時間を節約できるので便利だし、2週間分の番組をざっと一覧するには、やはりこういう媒体の方が迅速に行える。

もちろんこの雑誌がなくなっても、FM放送の利点は変わらない。特にNHKのクラシック放送は、国内外のライブ放送が良質であり、ヨーロッパ中心が多少気になるが(アメリカのオケは相対的にかなり少ない)、最近の音楽家の動向、演奏を実際に耳にすることができるし、CDになってないものも多く聴ける。地方の人間にとっては、国内盤レコード・CDの枠を超えるのも、こういったラジオ放送だ。

クラシック音楽を始めようとする人に、私は図書館かFM放送を勧めたいと、いつも考えていた。そしてできれば、こういうFM誌の番組表とクラシック名盤の本を比べながらいろいろな作品に接することを。そうやって私は名曲や演奏家のことを学んできた(中学校の音楽室にあったレコードを貸してくれた音楽の先生にも感謝しているが)。やはり自分で聴いてみることが一番だ。この頃からレコードなんか買っていたら(あまりできなかったが)、クラシックの表面のほんの少しを触るだけでも、ずっと時間がかかっていたと思う。

FMのエアチェック人口が減ってきているというが、やはり電波障害による雑音も原因の一つなのかもしれない。筆者の実家は(かつては三素子のFMアンテナを立てていたが、ケーブルが切れている)簡易アンテナでも、ほとんど問題なくきけるが(井戸のポンプが動く度、雑音が入るが)、かつて住んだ東京では雑音やマルチパスがひどかった(テレビではぼんやり映像が二重になる、ゴーストとなって現れる現象)。

富山の友人宅では、ケーブルテレビにFM電波も乗せているそうで、自分も将来はそうしたいと思う。財政に余裕があればネット上の海外の放送と共に、やってみたいことである。

やはりライブ放送・ライブのテープ放送が好きだ。知らない曲なら、CDの放送を録るのもいいが、ライブはオケもミスるし、会場の咳きも入る。でも、それが私にとっては、より本物だし面白い。レコードは、だから、何となく自分には違和感もある。いや、現在はCDをたくさんきいていて、こんなことを言うのは、まったく不釣り合いなのだが。

ちなみに、毎年の一時帰国の際に必ず買うのがこの『FM fan』だった。買う度に、クラシックの特集が健在でうれしかったり、疎遠になりがちなポピュラー音楽の世界のことを知ったり。かつては長岡鉄男の文章もあり、オーディオの欄も楽しんだものだ。今、オーディオの方も、パソコンに追われてしまっているのだろうか。来年帰国したころには、この雑誌、もうないんだなあ。


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