最近見たもの、聴いたもの(33)


2001年8月23日アップロード


01.7.31.

許光俊編著『クラシック、マジでやばい話』(青弓社、2000年)を読む。この中には、公にするとヤバい話というのもあるのだろうが、どちらかというと、「クラシックはマジでヤバいぞ」という路線の話が多いようにも思う。音楽学者は必ずしも良い評論家とはならないというのは、自分が音楽学をやっているためか、なるほどと思うところも多い。音楽学の勉強というのは、作曲家や作品中心となっているので、どうしても、そちらの視点になりがちで、読者の望む書き方にならない場合もある。また、評論家というもの、必ずしも音楽学的なトレーニングが必要ではない。楽譜が読めなくても、録音を多く聴くことによって、直感的に耳を作り上げていく人もいる訳だし、また、そういった人の書くものが、同じように直感的に音楽を楽しんできた人たちの共感を得ることも、充分に考えられるからだ。最終的には、評論家の趣味というものも反映されてくるし、読者像というのも一つではない。しかし一方で、不特定多数の読者がどのような存在であるのかは、結局誰にも分からないし、そういうものを求めて書くことも、あまり意味はないと、私は考えている。

クラシックが、音楽を楽しむ人々の中で、極めて少数派にあたるというのは、おそらくだれもが感じている現実ではあると思うが、それが「芸術至上主義」で何とか持っているという側面もあるだろう。特定のジャンルの音楽を大切にすること、それ自体は大きなことではなく、好みの問題でもあるだろうが、クラシックの場合、この芸術至上主義によって、他を見下すような排外的な発想になるのは良くないのだろう。問題は、クラシックというのが、もともと商業主義と相容れない発想で作られており、聞かれているということ。ヨーロッパでも政府の補助がないとやっていけないではないか、とあるが、やはりこれは、芸術音楽が、そもそも贅沢な音楽であり、経済原理だけではやっていけないものであると、少なくともタテマエ上そうなっているということであり、儲けのために、オーケストラの演奏者を削減するとか、儲かる曲をやるとか、そういう方向とはやはり違うというのが、暗黙の了解として成立している。

誤解してはいけないと私は思うのだが、おそらく、この本に執筆している人たちは、そのクラシックが、この現代社会で生き残っている原理そのものを否定しているのではなく、その原理に甘えてしまっている部分もあるのではないか、それを批判しているということだ。厳しい指摘であるけれど、一方でポピュラー音楽にも、「売れる」ということで、音楽の「価値」や「ゲイジュツ性」を批判する人間もいるのだし、それは「カネモーケ」と「ゲイジュツ」との間で、常に葛藤が起きている証拠ではないかと思う。

実際に経営を司る人たちにとって、現代社会は常に立ち向かわなければいけない存在となっているのかもしれないが、こちらの聴き手の側も、クラシックを存続させていくためにはどうすべきなのか、同時に考えるべき問題だろう。

音楽学者といえば、CDの解説が退屈だという、平林直哉さんのご指摘もある。何を楽曲解説に書くかというのは、人によって違うと思うのだが、私は聴き手を導くガイドであるべきだと思う。演奏会の場合は、これがもっと極端に出てくると思う。つまり、ラジオで聞くアナウンサーの解説のように、曲の演奏される直前に、さらりとされて、なるべくさっと頭に入るようなものが理想ではないかとも思う。

CDなどの解説も、基本路線は、作品に直接関わってくるような重要な情報を前書きとし、メインは作品を聞くために必要な箇所をポイントするようなものがいいのではないかと思う。構造的な聴取には異論もあるだろうが、もともとそういう聴き方を前提として書かれた作品も多いので、枠組みを理解することは、聴く行為にもプラスになると思うのだが。もちろん詳細な学問的分析というものは必要ないとは思うが。

かつて日本のCD会社が行ったように、分析に役立つインデックスを入れるのだったら、それにそった解説も可能だが、それはそれで、「お勉強」色が強くなることも否定できないのかもしれない。

音楽学をやっていて思うのは、評論家と呼ばれる人たちの幅広い知識、聴取の経験といったものに圧倒されるということだ。確かに音楽史を中世から現代まで一通りはやっているが、実際に評をするのはバロックから印象派までが大半だし、この時代枠の中で深く広くはなかなか難しい。近年はいわゆるスタンダードな作品群から離れて、マニアックな作品が紹介される傾向も強くなっているので(「レコード芸術」編 ONTOMO MOOK『クラシック輸入盤2001』などは、その顕著な例か)、いくら時間があっても足りないと実感する。


2001.8.2.

ラヴェル 左手のための協奏曲 フリップ・アントルモン(ピアノ)、ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団 Sony CD

1986年4月のエアチェック。 しゃきっとした立ち上がりのオーケストラと、波打つようなピアノが強い印象を残す好演。ピアノの方はもっと色彩感が欲しいような気もするが、あるいはこれも、オーケストラとうまく溶け合っているというべきなのかもしれない。

吉松隆 デジタルバード組曲 カメラータ・トウキョウ 30CM-179

「鳥たちの時代」と題された2枚組の作品集の2枚目。ミニマル音楽を思わせる和声と反復進行が基本になっているが、作品の展開には、別の原理も働いているように聴こえる。近年の「分かりやすい現代音楽」よりも、緊張感のある音楽で、面白い。次の《鳥の形をした4つの小品》も、良く似た作風。絞られた・練られた感じのする作品は、やはり《デジタルバード組曲》の方ではないかと思ったが。

芥川也寸志 管弦楽選集2 芥川也寸志指揮新交響楽団ほか フォンテック FOCD 9080
交響三章--トリニタ・シンフォニカ、チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート、アレグロ・オスティナート、武蔵坊弁慶

《交響三章》は、オスティナートを使った独特なバイタリティーと、たゆたう和声の上に乗せられた希求するような旋律線が魅力の作品。第2楽章は、毛利蔵人さんによると「子守歌」だそうだが、単に人を寝かし付けるような内省的なものではなく、込み上げてくる感情を抑え切れないといった力強い表現があるように聞こえる。《コンチェルト・オスティナート》は、作曲技法的な円熟をかなり感じさせる、錯綜した印象の力作。いわゆる「前衛」や「現代音楽」への接点さえ垣間みえる。残りの2曲は、アンコール風に収録。前者は、使われている楽器のせいもあるのだろうが、西洋の目で見た民俗音楽といった趣き。後者は、風流で描写的な音楽的断片。演奏は、総じて高レベル。

『七人の侍』:早坂文雄の芸術、管弦楽作品集(キング--Firebird KICC 303)を聴きながら、小林淳著『日本映画音楽の巨星たちI』(ワイズ出版、2001年)の早坂の章をナナメ読み。この本は、なかなかよくまとまっていて、映画における音楽の使われかたを、実証的に述べてある。どういったシーンでどういった効果が上げられているのかが具体的に述べてあるので、興味が出るし、適切な引用も面白い(資料調査の確かさを感じる)。池袋のジュンク堂では、音楽ではなくて、映画評論の箇所に置いてあった。数カ月前、広島大学から交換留学生としてやってきた学生が、アニメの『トムとジェリー』の音楽を卒論にしたいといっていたが、この本などは、ケーススタディーの見本として格好なのではないかと思った。CDの方は、収録時間76分のうち、『七人の侍』の部分は最初の5分少々しかないので、タイトルの付け方に「売らんかえ」という下心があるように勘ぐってしまうが、『羅生門』における、笙の妙(たえ)なる響き、強いインパクトを映画に残したというボレロが聞き物だった。


2001.8.3.

某インターネット・サイトで話題になっていたので、吉田秀和さんの本を読んでみることにした。全集が新しい製本になったようで、ちょっと驚いている。買ったのは第5巻「指揮者について」と第6巻「ピアニストについて」。やや文章がくどい気もしないではないけれど、詳細な聞き込みと演奏スタイルの検証を独自の視点で行っていることは高く評価できるのではないだろうか。


2001.8.9.

シューベルト 交響曲第9番ハ長調D944《ザ・グレート》ウェルフガング・サヴァリッシュ指揮ウイーン・フィル 2001年1月14日、ウイーン・ムジークフェライン大ホールにてDAT録音、オーストリア放送協会提供の録音テープ、NHK-FM

地元ウイーンの作曲家による無難な作品を無難に通した演奏。


2001.8.10.

マーラー 交響曲第3番 レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団 独グラモフォン 459 080-2

音楽作品というものが長大化し、交響曲の各楽章にも雑多な要素が入り乱れる。楽式論的な分析をスコアを見ながら行えば、そこにはソナタ形式などといった過去の遺産を見い出すことは不可能でない。しかし、特定の主題なり動機の記憶を前提とした構造的聴取は、このマーラーの交響曲になると、いきなり難しくなってくる。

そうすると、聴き手は形式不理解を恐れながらも、作品に聴かれる旋律、音色、ダイナミズムや繊細さといった、作品の魅力を個々の箇所に見い出し、チャンスがあれば、それらの有機的結合を試みることになる。オーケストラを効果的に使うことは、特定の動機を記憶し定着するためにあり、それでなんとか交響曲の体裁が何とか保たれているのではないだろうか。

後半楽章には声楽や児童合唱も入ってくる。歌詞が入ることによって、この曲が文学的要素によって性格づけられることは避けられないし、事実これらの歌詞によって、前半楽章とは対比的な、透徹した、宗教的な世界観さえ垣間見える。手元の解説書によると、「交響曲第三番は、前作の第二番が『死と復活』の交響曲であったとすれば、マーラーの『自然の賛歌』ともいうべき作品である」とあるが、私には、そういったものが聞き取りにくかったというのが正直なところ。むしろ、第2交響曲に通ずるテーマが違った角度から提示されているように思う。第2番と違うのは、「死と復活」といった直線的なドラマではないところ。後半の3楽章によって、歌詞による作品の(標題的)集約が行われているところではないかと思う。世俗的な世界と宗教の意味といった2つの要素については、むしろ第2よりも、明確になっているようにも思える。

言い方を変えれば、「死と復活」というテーマそのものは、聖書に見い出される重要な教義上の話であり、それが社会に投射されているようである。宗教世界はそれのみで完結しているようであるし、あるいはその物語を全体を、宗教的文脈から切り離し、世俗のものとして捉えることも可能である。

しかし、第3の場合、テーマそのものがあいまいである代わりに、世俗と宗教とが対比され、一方でそこに融合の道がないのかという模索を提議しているように見えるのである。

バーンスタインの演奏における「わかりやすさ」は、印象的な動機の提示にまずあるし、要所を押さえた構成力になるような気がする。コントラストを明確にしているのは、その手段の一つだろう。後半楽章で、それが若干難しくなるのは、いたしかたないこと。一方、聴き手を引き付ける魅力は、演奏者の自発性を大切にし、それを最大限に引き出すことのできるバーンスタインの力量であろう。


2001.8.11.
 
マーラー 交響曲第5番 ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 墺アウディテ 95.465

例えばゲオルグ・ショルティとシカゴ交響楽団のマーラーに慣れていると、こういったアプローチというのは驚きなのかもしれない。しっとりとした管弦楽の鳴り方、着実な音楽の進め方。しかし、決して音楽の面白さが減った訳ではなく、こういうやり方もあるのだという認識に至った。彼のグラモフォンに入れた全集を聴いた訳ではないので、何とも言えないのだが。やや音量を大きめに再生すべき?


2001.8.12.

ブルックナー 交響曲第8番 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウイーン・フィル 1984年11月28日エアチェックのライブ

これを聴くに先立って、「レコード史上の名盤」とされる、クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルのCD(ウェストミンスター)を通して聴いてみる。「名盤」ということで、評論家もファンも高く評価しているのだろうが、私にはイマ一つ。普段録音というのは気にしないたちなのだが、なぜか残響のなさが気になった。オーケストラの弱さも災いしているのかもしれない。ジュリーニのライブはストレートに素晴らしいと思ったし、楽しめたので、おそらくクナッパーツブッシュをもう一度味わう必要があるのだろう。いわゆる「名盤」「名演」には、一度でその良さが分からないものもあるから、とりあえず、評価は保留しておく。それにクナッパーツブッシュにしても、もしかしたらこのブル8は、昔々の超名演の名残りを止めているにいるにすぎないのかもしれないし。


2001.8.15.

ということで、もう一度、クナのブル8を、かじり聴き。何となく、ああ、こういう演奏スタイルが好きな人もあるのかな、と感じ始める。でも、それはジュリーニの演奏によって、作品の概観がつかめたからかもしれない。手元のノヴァーク第2版のスコアを見ながら、何となくそう思う。


2001.8.16.

伊福部昭 交響頌偈(じゅげ)《釈迦》 小松一彦指揮東京交響楽団、東京オラトリオ研究会、大正大学音楽部混声合唱団 Futureland(東芝EMI) LD32-5105

伊福部は土俗的、あるいは民俗的な音楽をクラシックに持ち込んだ作曲家とみられるように思えるが、この作品の主題は宗教的であり、おそらく「土俗的」という言い方は間違っているのだろう。彼が《交響譚詩》でみせた音は確かに垣間見られるが、主流はもっと洗練された楽想作りのように聞こえる。全体としては構成力も感じられる、魅力的な力作だ。合唱の入りもドンピシャリという感じ。同時収録の《SF交響ファンタジー》第1番は、芥川の初期にも通ずる元気のある作品。冒頭の「ゴジラ」のテーマも含め、余興的要素も強い。

この伊福部作品を聴いたあと、ハチャトゥリアンの《スパルタクス》を聴いていたら、オスティナートが不思議と日本風に聞こえたりする。あるいは反対に、オスティナートが汎民族的なのか。


2001.8.17.

チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調作品64 エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮レニングラード管弦楽団 独グラモフォン 419 735-2

特定の作品をどういった演奏で聴いたかというのは、その曲の印象に決定的な影響を与えると思う。私のチャイ5との出会いは、シャイー指揮ウイーン・フィルのものであり、それがいわば、隠れたスタンダードとして私を支配しているように思う。中学生の時に繰り返し聴いた録音であることが、それを一層強めているのではないだろうか。だから、ムラヴィンスキーの演奏には大変感銘した一方、冷めた目で捉えたり、「ここが違う」と思うことも少なくない。第4楽章の序奏が終わり主部に入るところのティンパニーのクレッシェンドがないのが、例えばその一つ。全体にテンポ設定が速いこともある。この作品についてはいろいろ聴いたが、ムラヴィンの演奏は確かにオーケストラの音が重厚だが、ストレートで直線的だ。オーマンディやデュトワ、バーンスタインだと、もっとアクションが大きいように思う。セルは私も評価しているが、どちらかというと、それはムラヴィンと他の演奏との中庸であるように聞こえる。


2001.8.19.

ストラヴィンスキー 春の祭典 ガンサー・シュラー指揮ニュー・イングランド音楽院アンサンブル 米GM Recordings GM 2033CD.

1971年にニューイングランド音楽院の学生オーケストラによって演奏されたハルサイ。学生オケが同曲を演奏したのは、イーストマン音楽学校が最初だそうだが、一般発売された演奏としてはこれが最初のものだという。もともとは発売することなど考えていなかったが、演奏が思わぬ成功をおさめたために、発売に踏み切ったとのこと。もちろん第1回目の発売はLPで、ニューイングランド音楽院のカスタム・レコードだった。筆者はこのシュラー自身のレーベルによるCDをボストンの深夜ラジオ放送で聴き、タワーレコードにて即座に入手。現在まで、時々聴きたくなる演奏となっている。もちろんライブ故の傷はあるが、一丸となった歯切れの良いアンサンブルと勢いは、やはり魅力的。冷めたプロの演奏とはまた違った面白さがここにある。機会があればぜひ一度、お試しあれ。

解説書はガンサー・シュラーによるもの。前半はこの演奏・録音にまつわるエピソード。後半はシュラーによる、ハルサイの分析的なエッセイ(譜例つき)。アルバン・ベルクの室内協奏曲も同時収録。でもやはり、このCDのメインは、なんといってもハルサイ!


2001.8.21.

ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調作品67 カルロス・クライバー指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 Deutsche Grammophon 415 861-2

現在は「Originals」シリーズの中の一枚として、第7とカップリングされている、クライバーの第5。その第7とバイエルン放送響の第4(オルフェオ)は大好きな演奏なのだが、第5に関しては、この2つほどの感銘はしなかった。第1楽章も疾風怒濤の力演と言えるのかもしれないが、やや角の取れてしまった箇所も感じられてしまう。何かポイントを外してしまったような気まずさというか。先日聴いたルネ・レイボヴィッツ/ロイヤル・フィルも、かなり速いテンポでの演奏なのだが、彼の緩急の出し方やオケの鳴らせ方の方に、より強い説得力を感じてしまうのだ。演奏速度の速さや音の鋭い立ち上がりなどは、クライバーのベートーヴェンにおけるスリリングさの重要な要素だと思うのだが、それらをどう使うのかによって、最終的な印象が違ってくるように思う。

ちなみにいままで聴いた第5で印象に残っているのは、フルトヴェングラー/ベルリン・フィル(ガクシャとしては異義を唱えなければいけないのだろうか?)、1947年5月27日ライヴ(グラモフォン)、カラヤン/フィルハーモニア、55年の録音(EMI--ベルリン・フィルのは、鮮やかだけど、ちょっと重いかな?)。いずれもモノラル。ステレオではアーノンクール、レイボヴィッツ、ヴァントかな? 一度聴いてみたいのは、トスカニーニとセル。


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