音楽雑記帳(30)



アメリカ音楽書籍の動向
『新潟日報』1997年掲載


 アメリカの音楽書籍に、このところ新しい潮流が見られる。従来音楽史の記述 は、ヨーロッパの大作曲家の生涯と彼らの残した名曲を中心述べるというのが一 般的だったが、最近そういう記述に疑問が投げかけられているのだ。

 例えば、日本語にも翻訳され、アメリカで最も信頼されているグラウト著の『西洋音楽史』(第一版は一九六〇年発行)という本に、「古典派様式の源泉」という章があった。この章はハイドンとモーツァルトといった古典派の大作曲家を述べる章の前に置かれていて、大作曲家以前の音楽は、あくまで彼らの創作源として「歴史的価値」しかないと言っているようだ。この『西洋音楽史』が昨年五回目の改訂を受けたのだが、同じ章の見出しは、「初期古典期におけるソナタ、交響曲、オペラ」と書き改められた。これは、ハイドンやモーツァルトが古典派を作り上げたのではなく、すでに多くの作曲家によって古典派として確立された音楽があったからこそ彼らがそれを彫啄し、歴史的なピークを作り上げられたのだという考え方から来ている。これによって従来「歴史の狭間」に埋もれていた作曲家や作品にも、見直しの機会が与えられることになる。音楽史の描き方も、このように多様さを深めようとしている。日本語版はまだ第一版の訳のままだが、そろそろ改訂の時が来ているのではないだろう か。

 また、最近盛んな動きの一つに音楽を女性の立場から捉えようとするものがあるが、シトロン著の『性と音楽規範』(九三)は、単に女流作曲家を見直すだけでなく、音楽社会における女性の役割や性と音楽形式といった問題にまで踏み込んでいる。特に後者では、ソナタ形式の第一・第二主題には、それぞれ男性・女性の性格が表現されており、性の葛藤の表現が形式に盛り込まれていることを、十九世紀に書かれた数々の音楽理論書から導きだしている。視点を変えることによって発見されるものは、予想以上に大きい。

 音楽作品の分析にも従来の枠組みを超えようとする流れがある。従来アメリカの楽曲分析は、作曲技法に焦点が置きかれ、実証主義に根差した科学的・抽象的なものがメインだった。しかし最近新しいモデルが開発されている。クレーマーの『文化実践としての音楽』(九〇)という本では、文学作品の分析法が音楽に適用され始めた。音楽作品がドラマとしてどのように構築されているか、特に物語の流れのようなものを音楽の中に見い出すことにより、従来の「型」にはめた分析法では接近しにくかったロマン派作品の楽曲分析を実りあるものとしている。この本は、他の文芸・芸術分 野を音楽理解のために応用していること、それらを同時代の文化的文脈に置いていること、そして分析そのものよりは「解釈」に重点を置いているという点で、アメリカ音楽学の最近の動向をリードしている。

 ところでCD発売以来、最近は音のついた書籍もよく見かけるようになったが、 大半は名曲をガイドした冊子に実演が付随した程度のものだ。しかし、この音の 情報を演奏法に生かそうという試みがある。マクギー他編の『初期音楽を歌う』 (九六)という本は、中世・ルネサンス時代の歌曲を歌う際の言葉の発音に焦点 を置き、ラテン語が地域によってどう発音されたか、フランス語や英語の発音が 時代に応じてどのように変化したかなど、学者による綿密な発音の再構築のもと に詳細な解説が加えられている。しかもCDによって実際に音を聞くこともでき るのだ。古い言語というものは、黙読によって内容を理解するだけなら問題はな い。しかし古語を扱う演奏家にとって、言葉は音そのものである。しかも即演奏 に結びつく命綱であって、おろそかにはできない。この本が、古楽を中心とする 各方面から歓迎されている理由もそこにある。

 現在、音楽研究の視野は果てしなく広がり続けている。しかもそれらは単に学 問好きの人達だけの知識にとどまらず、音楽を実践する人にも、避けて通ること のできないものとなりつつあるようだ。



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