音楽雑記帳(8)



アメリカと日本の音楽教育を受けながら 97.10.20.

日本の教育は、一定量の知識を教え込み、それらを暗記させること・定着させる ことに主眼があるといわれています。それに対して、西洋の教育(例えば英語ではeducation)はラテン語のの"educare"に由来し、教え込むというよりも、引き出すというイメージだとされています。日本語の「教育」が受け身的であり、上から教えるという発想、educationはもっと学習者の自発性を導く創造的発想だということのようです。

でもアメリカの学部生の授業をいくらか見ることがあり、その現状から、アメリカでは「創造」に至る前に、先生から基礎をみっちり叩き込まされるという印象を受けます。

例えば音楽史の概論の授業など、それぞれの時代の歴史用語・音楽用語キーワードを覚え、代表的作品を聴き、理論家や作曲家の名前を覚える、といった感じの授業になります。民族音楽の授業も、それぞれの地域にある音楽に接し、どういう音楽があり、どういう楽器があるか、また音楽がある社会でどのような役割を果たしているか、民族固有の用語を使ったりして、なるべく多くの知識を獲得することに焦点が置かれます。

どちらかというと教授法は日本の高校に近く、違うのは生徒が常に先生に体当りできる、ということぐらいでしょうか。分からないことがあればその場で質問する。言いたいことがあれば発言する。先生もそういう学生を歓迎する傾向にあります。もちろん、いつも質問や発言がでる訳ではありませんが、生徒がただ教室にいるだけでなく、積極的に参加し、常にインタラクティヴな関係にあることが、アメリカの授業の醍醐味かもしれません。

ですから、先生が「オレは先生、お前は生徒だ」と、威張った態度に出るということはなく、先生もすべての質問に答えられないかもしれません。そのような時は先生もともに勉強するわけです。私も一度、民族音楽学の先生から日本と中国の笙はどう違うのだ、と質問されたことがあります。

おそらくアメリカで良い生徒というのは、まず先生の教えたことをきちんと覚えていること、そしてそれに乗っとって何か面白いことを考えられる人なのかもしれません。

よく、日本で「創造的教育」ということが言われますが、アメリカはちょっと保守的で、何も知識がなければ、創造力も膨らまない、「0からの出発」はないという考え方が根底にあるような気がします。実践主義的なアメリカがそういう風に考えているというのは、意味があると思います。

私個人としては、日本の大学ものんびりしていて、しかし教授の最新の研究成果に触れ、よい刺激を受けたり学問の素晴しさを学んだり出来るので、それも面白いと思っています。興味は動機となり、それが様々な学習(研究)活動への意欲となるからです。テストによるプレッシャーも少なく、自分の好きな分だけ、情報を獲得すればよいということもあるでしょう。

ただ、基本的知識力の強さ、内容の多彩さ・深さは、短期でぐっと集中させてくれる、アメリカの大学にも良さがあります。自分で自分を律するのは難しいものです。ストレスはたしかに溜まるのですが、それをエネルギーに変える価値は十分あるといえます。先生が受け止めてくれる、と信頼できるのです。



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