音楽雑記帳(6)



ダニエル・ハーツ教授特別講義:内容の一部紹介(Jan. 13, 1997)

カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の教授で、古典派音楽の専門家のダニエル・ハーツ教授が、1月13、14日と、タラハッシーのフロリダ州立大学で特別講義を持たれました。一日目は博士ゼミにおいて、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハの音楽を中心に、楽しい講義・ディスカッションをしていただきました(リンドセイ・コンサート・ホールにて)。以下はこの時の様子から、その一部をお届けするものです。

まずは歴史的背景として、プルシアを中心としたヨーロッパの政治・文化史、そしてC.P.E.バッハと縁りの深いフリードリヒ2世についてお話し下いました。宮廷で何が起こっていたのか、ヨーロッパの都市文化はどうだったのか、年代を含めて細かい議論もありました。フリードリヒは、ご存じのとおりフルートの名手でした。宮廷のアンサンブルもあり、作曲家で彼の先生であったフルート奏者クヴァンツやボヘミア出身の作曲家フランツ・ベンダもいました。またフリードリヒはイタリア・オペラにも関心が強く、アンサンブルや歌手も盛んに招へいしていたようです。ジャンルとしてのオペラはこの時期ついに開花し、1742年、ベルリンに初のオペラ・ハウスが出来たのは記憶に止めておいてもよいでしょう。面白い情報としては、カストラート歌手が宮廷音楽家のクヴァンツや楽長よりも多い給付を得ていたことがあります。もっともこれは今日プラシド・ドミンゴがオペラ指揮者以上のギャラを得ることを考えれば、不思議ではないかもしれません。

ところでメインはCPEバッハの<プルシア・ソナタ>第1番についてで、初版のスコア(1742)のファクシミリを使いながら、作品研究を行いました。楽譜は、作曲者による版彫りで、父セバスチャン・バッハが<クラヴィーア練習曲>で見せたのと同じように、この技術には長けていました。なお、印刷はニュルンベルグになっていますが、ニュルンベルグは当時商業印刷が最も発達していた都市だったことを記憶しておくのも良いでしょう。表紙、序文ともイタリア語で書かれています。表紙にあるD. D. D.は献呈を指しているようですが、イタリア語からすると、3つ目が何を示しているのかが分からないそうです。また序文は、作曲者の苦労にもかかわらず、あまり流暢なイタリア語ではないそうです。文法的に意味が通らない箇所が多いということなのです。しかし献呈者がフリードリヒ2世であることを考慮し、作曲家が自分の才能をさげすむ一文もあり、とても面白い内容になっています。

第1楽章の出だしはヘ長調カノンになっていますが、音形がバッハの同じ調によるインヴェンション似ているのが特徴的です。2小節目、右手のa'は一種のアポジャトゥーラですが、人文主義的な言葉を使えば「ため息」と言えるものだそうです。同じ係留音でも2段目の最後の小節に見られる右手のe''は準備がないので、アポジャトゥーラとは言えません。冒頭の第1主題に続き、接続部は6小節目から始まります。ここにもカノンが見られます。ここで時折見られる音形は、2つの16分音符に1つの8分音符が続くものですが、「3つの音によるため息」で、当時流行していました。Pianoの表示がある第4段目からは第2主題の提示になります(ハ短調)。ここに見られる6度の跳躍は作品を通して頻繁にみられるものです。学生の一人は当時の思想Empfindasamerの表出のではないかと指摘しました。コデッタ的な部分が5段目から始まりますが(forteの表示がある)、ここでは主題の反行形が現われます。このような展開はジーグで良く使われるもので、その舞曲の形式がここに見られるということです。

この作品の初稿で、表紙と序文がイタリア語で書かれていることを述べましたが、第2楽章は、実にイタリアオペラのアリアを元にした叙情的な音楽です。しかしながら、転調がスタンダードなオペラどころではなく、また突然レチタティーボが音楽をさえぎります。この辺り、イタリア人を装ったCPEバッハがついに感情を抑え切れず、形式的に破綻した彼独特の表現を出すことになってしまったようです。

全体として話の進め方は、大体の内容を想定しながら、特に明確なアウトラインもなく、知っていることから自由に話をつむぎだすといった印象でした。きどりもなく、雰囲気もとても気さくな方でした。参加した学生の方が、よほど緊張した感じになっていて、いつもはもっと発言しそうな人も、割と無口でした。



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