音楽雑記帳(37)



ナショナル交響楽団 コンサート「Festival of Favorites」

2002.6.26.アップロード


第10426、10427回公演 オスモ・ヴァンスカ指揮ナショナル交響楽団 ケネディ・センター、シンフォニー・ホール、6月20日午後7時30分、6月21日午後8時30分

6月20日(木)
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調(ピアノ:ルイ・ロルティ)
ラフマニノフ:交響曲第2番

6月21日(金)
ラウタヴァーラ:Cantus Arcticus
グリーグ:ピアノ協奏曲(ピアノ:ラウラ・ミッコラ)
シベリウス:交響曲第2番

2002年6月、議会図書館での資料調査のため、ワシントンを訪れた。しかし図書館は5時で閉館のため、夜は自由時間。そのうちの木曜日と金曜日の夜は、地元のナショナル交響楽団のコンサートを聴きに、ケネディ・センターに行ってきた。夏の間ということもあってか、今週は公共ラジオ放送でおなじみのマイルス・ホフマンを司会に迎え、親しみやすさを打ち出した名曲コンサートといった趣きで公演が進められた。

ただ木曜日のホフマンは、手持ちマイクではなく、ドライブインのファーストフードの店員が使うようなマイクを使っており、これが失敗だった。耳の方から細い管が口の方に伸びてくるものなのだが、ホフマンの語りよりも、彼の呼吸が異様に増幅され、とても聴きづらいものになったからだ。2日目は、さすがに通常の手持ちマイクにされた。

さて、木曜日の1曲目は、ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》。ゆっくりのテンポを終始保持する作品で、指揮者にとっては「棒振りテクニック」を試す曲にさえなるという。もちろんヴァンスカのテクニックに不安を感ずることは幸いなかったのであるが、一方で作品の楽想を繋いでいくのは難しいのだろうな、と思わずにはいられなかった。各奏者の描く弧のような旋律は落ち着いた息遣いの中で十全に歌われており、このオーケストラの機能性を知るには充分であった。しかし印象派作品の中にも、ドラマや流れはある。それをまとめた形で進めていくのは、ひどく難しい。研ぎすまされた静寂の中に投影された音の束に、何か一筋の光が欲しいものだ。しかしそれは、贅沢なリクエストなのかもしれない。

2曲目はラヴェルのト長調ピアノ協奏曲。司会によると、ラヴェルはあえて深遠さを求めず、舞踊音楽を頻繁に取り入れていたという。なるほど第2楽章にブルースを使ったことは知られているし、両端楽章も楽しいフレーズに満ちあふれている。もちろんそこに不思議と透徹した世界が現れるというのがラヴェルの考え方でもあったそうだが、今回の演奏では、確信犯的に面白さを追求しており、そのふっきれた聴かせかたが、大いに成功していたと思う。カナダを中心に活躍するピアニストのルイ・ロルティは、体をフレーズに合わせて揺らして演奏するピアニスト。こういう人は、往々にして感情過多で耳が伴っていないことが多いのだが、この人の場合は幸いそうではなく、楽器から音符が飛び出してくるような、こぼれてくるような楽しさが常にあり、オーケストラとの相性もすこぶる良好だった。スイング感もあり、楽しい一時を過ごした。作品に関しては、第1楽章のオーケストレーションの斬新さに、改めて魅了された。

メインのラフマニノフの第2交響曲について、司会は作品が長過ぎると言われるがどうか、という質問をヴァンスカに当てていたが、これはあまり良い質問ではなかっただろう。もちろんヴァンスカは「長くない」と答えた。それにしても、この作品は第1楽章の冒頭からして、ソナタ形式の枠組みの中にいろんな「詰め物」をしたロマン派末期の延長線上にあるもので、ラフマニノフ特有の親しみやすい旋律がなかったら、もっと革新的な作品と見られているに違いない。

結局ヴァンスカも、これら多くの楽想をいかにまとめるのか苦心したように思う。点として魅力的な箇所は多く見られ、フィナーレも、チャイコフスキーのように、失敗することの少ない豪快なものだ。しかし、いま振り返ってみると、推移部の扱い方など、未消化の部分は、どうしてもあったように思えた。いや、それは彼だけの責任ではなく、作品そのものにも問題があるのかもしれないが。

《牧神》の部分でも述べたように、ナショナル交響楽団は機能性の優れたオーケストラで、アンサンブルもしっかりしている。不思議とスケール的には小さくまとまってしまう傾向にあり、それがボストン交響楽団と比べて、多少遜色があるように見えてしまうところかもしれない。強いキャラクターがないところも、私は特に問題には思えないが、アピールしにくいのかもしれない。しかし優れたオーケストラであることは間違いないし、あるいはCDなどに録音される時点で、かなり本物の響きから変わってしまうこともあるのかな、と思った。


続いて金曜日のコンサート。名曲コンサートに現在のフィンランドを代表するという作曲家ラウタヴァーラを持ってきたのは面白い。司会によると、聴衆にすぐにアイディアが受け入れられる音楽が現在必要であるそうだが、それが《Cantus Arcticus》なのかというのには若干疑問が残る。それでも同時代に作曲者がどういう問題意識を持っているのかを提示する意味はあるのだろう。小編成のオーケストラに書かれており、トロンボーンが一本だったのは印象的だった。鳥の泣き声が天井のスピーカーから流され、私の横のご婦人は第1楽章を聴きながら「ふん、ふん」と声を出しておられたが、とりあえずの印象付けとしては成功したということだったのであろうか? 

動物の泣き声とオーケストラということでは、私はホヴァネスの《そして神は偉大なる鯨を創り給うた》という作品を思い出す。この作品では2つのセクションに鯨の声が独立して挿入されるのだが、ラウタヴァーラ作品の場合は、小鳥のさえずりが、常にオーケストラと重ねられるようになっている。まさに副題にある通り、「協奏曲」なのだろう。一方で、楽章の間にも挟まれるこの鳥の声が、どれだけ作品に立体的な意味を持たせているのかについては、やはり疑問も残り、どうせならテープでなくて本物の鳥の声でも、などと妙なことを考えるようにもなった。このようにあまりオーケストラと鳥の声との間の相関関係が聴けなかったのは、あるいは私の問題であるのかもしれない。

続いて演奏されたグリーグのピアノ協奏曲は、親しみやすい旋律に溢れた名曲と言える。しかしピアニストがその要請にどれだけ答えられるのかは、また別の問題になるだろう。独奏を担当したラウラ・ミッコラは、冒頭部分の下降音型の後から和音の部分までの「見得切り」がぎこちなく、またペダルの使い方がまずかったのか、ソロ切れの音に聴き手が気まずくなるような濁りが聴こえた。もちろんこの部分だけでピアニストを判断するのは不幸であるし、ピアニストにとっても、ここだけで自分の演奏を判断されるのも酷だろうと考えてはいたので、判断は保留した。しかし先行きに不安を感ぜずにはいられなかったのも確かである。

そして、この冒頭の気まずさは最後まで引きずられることになった。フレージングにあまり細かい配慮がなく、どちらかというと「弾いている」タイプのピアニストで、あまり自分の演奏が聴こえていないのではないかとさえ感じられた。ペダルによる濁りも随所にみられ、打鍵のまずさをカバーするような箇所も見受けられた。

作品が名作であることは間違いない。オーケストラも引き立てていた。しかしこの日のミッコラは、やや力不足ではなかっただろうか。聴衆のいくらかはスタンディング・オヴェーションで喝采したが、私自身は不満だった。

休憩を挟んだ後はシベリウスの第2交響曲。スウェーデンBISレーベルからもラハティ交響楽団との演奏がCDになっていて、ヴァンスカのシベ2はよく聴かれているのかもしれない。今回の演奏では、特に第2楽章に深みのある表情を出していたのが印象的だった。全体としては、金管楽器から輝かしい音をうまく引き出していて、こちらは「これでは最後でバテてしまうのでは」と、はらはらしたのだが、うまくコントロールされていたのか、最後まで吹き切り、大いに感銘した。一方響きが若干うすく感じられたのは、おそらく弦楽器があまり豊かに鳴らせなかったことに原因があったのかもしれない。作品の演奏様式としては、情熱一杯に賛歌を歌い上げるというよりも、シャープな切れ込みで唸らせるタイプではないかと思った(ヤルヴィもそうかもしれないが)。曲を演奏するに当たってヴァンスカは、「人生には浮き沈みがある」という主旨のコメントをしていたが、あまり国民主義的なものではなく、そういった人間ドラマ的コンセプトを考えていたのだろうか。

土曜日はベートーヴェンの第5を中心としたプログラムになっているが、私はタラハシーに移動のため聴くことができなかった。しかし今回の2回の公演で、アメリカのオーケストラの裾野の広さを体感するには充分であったといえる。また、現在大都市から離れて住んでいる私にとっては、久しぶりに耳をリフレッシュさせる、良い体験となった。5大オーケストラに比較して地味な存在ではあるが、今後注目していきたい楽団ではあると思う。(02.6.25.、02.7.13. 訂正、02.7.22. 訂正、02.8.14. 訂正、02.9.16. 訂正)


一覧に戻る
メインのページに戻る