2002.3.4.アップロード
国民的スポーツの祭典や大リーグ・シーズンの幕開けにも見られるこの光景、おそらくテレビや映画でも見られた方はいるだろう。しかし、これを現実に自分が体験することになるとは、渡米するまで、夢にも思わなかった。
では、その場に居合わせた私はどうしたか。とにもかくにも、立ち上がってみたはみたが、国歌は歌えなかった。アメリカの国歌の歌詞も知らなかった上に、それを歌おうなどという必然性も、それまで感じていなかったのだ。ましてや胸に手を当てるなんて、恥ずかしくて、とてもできなかったのである。
ところが、当のアメリカ人たちには、国歌斉唱の時に、立ち上がったり、胸に手を当てたりするのは当然のことらしい。歌のイントロとしてスネア・ドラムがトレモロを打ち始めるやいなや、その状態に自動的になれるのだ。これを初めて目のあたりにした時の私の印象は、「怖い」であった。
この時の体験以来、私は国歌というものについて、強く意識するようになった。単にアメリカ人の真似はしたくはなかったし、一方で、周りと違う行動を取ることによって生じる疎外感のようなものも、やはり感じていた。これが原因で、異国に住む日本人の私が、最終的にアメリカ社会に溶け込めないことにもなるのだろうか、と考えたこともある。
決してアメリカが嫌いな訳ではない。いろんな人々の多様な価値観が認められ、日本のように権威ばかり主張する人間も少ないこの国だ。特にフロリダ州を含む南部には、「サザン・ホスピタリティー(南部のおもてなし)」という言葉があるほど、やさしくて、素朴な人たちも多い。しかし、そのアメリカの人たちが好きだという感情が、どうしても国歌を歌うという行為と結び付かない。なぜ国歌を歌うのか、その疑問は解決されないままだ。
ところで、アメリカの国歌は国旗と密接に結び付いている。国歌は国旗について歌っているからだ。そしてこの星条旗こそ、アメリカのアイデンティティーを示すもの。「アメリカ」という名前のつくものに、すべからく国旗がプリントされているのも、そのためなのだろう。ものの本によると、アメリカの公立学校に入った生徒は、国旗を見ながら神と国家に忠誠を誓わされるそうだ。しかし、神ならばいざしらず、なぜ国家にまで忠誠を誓わなければいけないのだろうか。
アメリカ人の中でも、そういうことを考えながら歌を歌ったり、旗を掲揚する人は少ないと思う。事実、星条旗などは、祝日でなくとも、毎日あちこちに掲げられている。初めてアメリカを旅行した際、留学経験のある私の大学の先生は、国旗を指さし、「あれは愛国心の現われなのだ。日本とは事情が違う」と説明してくれた。その時は漠然と納得していたが、今はどうもしっくりこなくなった。
このような心情に至った理由は、自分でも完全に理解できていない。おそらくこういう問題は、知的な論理づけで解決できるものではなく、もっと感情的なものに端を発しているからだろう。例えばそれは、私がこのアメリカに対して、楽観的に愛国心を抱けないことに由来しているのかもしれない。暴力の氾濫する国、銃乱射事件の国、麻薬の国、人種差別の国、軍国主義の国(大学構内で軍服を着た学生を見た時、これを実感した)。好きなところもあるアメリカなのに、悲観的なところはたくさんある。
人は、そんなことを深く考えずに、もっとアメリカ生活を気楽に楽しめばいいと言うかもしれない。事実私は、国歌は歌えなくとも、曲として聴くのは一向に構わない。音楽を勉強する上で、国歌の問題について、考えることもあまりない。
一方、受動的に国歌を、その文脈から離して聞くことは、やはり、実際に声を出して歌うこととは違う。歌には、自分の気持ちが込められるべきだからだ。そして、長い間この国に生活していると、「自由の国」などという楽観的なイメージだけでは総括できないアメリカも、私には見えてきた。だから、どうしても「アメリカ万歳」といった気分で陽気に国歌を歌う気にはなれないのだ。
おそらく、最終的には、もう少し時間をかけて、否定的な面と肯定的な面の両方を熟慮しながら、このアメリカという国を自分なりに再評価すべきだとは思う。しかし、その結果、私が国歌「星条旗」を歌うようになるかどうかについては、今のところ、はなはだ懐疑的である。(音楽批評紙『Breeze』第19号 [2000年3月1日] に掲載)