音楽雑記帳(33)



地方の音楽文化:求めることと育てること

2002.1.16.アップロード


 アメリカは音楽文化の拠点の一つとされている。確かにニューヨークでは、世界一流の音楽家たちが競い合ってコンサートを開き、厳しい耳を持った聴衆を楽しませている。文化都市の名にふさわしく、新しい音楽活動が目くるめく展開するその創造的な環境は、確かに素晴しい。しかしアメリカの音楽事情を大都市に代表させてしまうと、見えてこないものもある。地方における音楽文化が、都市部のものとはかなり違っているからだ。

 例えば私の住むフロリダ州のタラハシーはフロリダ州の州都であり、最高裁判所の一つもある人口一三万の町だ。しかしここには全国レベルのオーケストラや歌劇団はない。日本の地方都市のように、海外から音楽家が訪れることもない。

 数字の上では確かに一年間に三百以上のコンサートもある。だがそのコンサートの大半は、タラハシー唯一の総合大学、フロリダ州立大学音楽学部の学生が卒業資格要件の一つとして行うものである。

 こういった学生の開くコンサートには、問題点がいくつかある。例えば比較的小さなホールで行うリサイタルの場合、どのコンサートに行っても、プログラミングに個性がないということがある。それは先生から常にバロックから二十世紀までの作品を均等に含むよう指示があるからだ。従ってどの演奏会もクラシック音楽のごちゃまぜ品評会といった印象を持たされてしまい、演奏家の得意とするレパートリーなどというものは反映されにくい。その現状に嫌気のさした私の友人は、その「規則」を破り、オール・ブラームスの室内楽演奏会を開いた。結果としては、曲組みの面白さも出たし、本当に音楽に共感できる共演者が参加することにもなった。

 もちろん幅広いレパートリーを演奏を通して学ぶことは貴重だろう。だがそのような「教育的配慮」は、どのような時代の音楽も均等につまらなく演奏する音楽家を育てることにもつながるのではないだろうか。まず自分の演奏する音楽に共感しなければ意味がない。

 しかし、音楽専攻学生によるコンサートのもっと深刻な問題は、実際に演奏を行う学生たちに、専門の演奏家としての真剣さがあまり感じられないことだろう。

 先日大学オーケストラの演奏会を聴いた。グラズノフのヴァイオリン協奏曲を博士の学生がソリストとして弾いた。しかしこの女流ヴァイオリニストは、大編成のオーケストラや約千五百人の聴衆を相手にしているようには見えなかった。客席側からみて常に右下を向きながらひたすら自己に没頭していくその音楽は、協奏曲ではなくソロ・ソナタを奏でるようなスケールだ。客席との心理的駆け引きといったものは全く感じられない。伴奏するオケも、音を間違えても気にしないといった態度で、聴き甲斐が全くないのである。

だが、その演奏よりももっと驚いたのは会場の反応、スタンディング・オベイションだった。それはとても信じられない光景だったし、私自身がそれに付き合おうという気持ちはついに起らなかった。この人たちは本物の音楽に出会ったことがあるのか、一流のヴァイオリン・ソロを体験したことがあるのか、というのが率直な感想でもあった。これまでの経験から、アメリカは自己満足の強い国だという実感がある。今回のコンサートで出会った聴衆も「オラが村のヒロイン」に感動しているだけなのかもしれない、とさえ思えた。  一方、実際に立って熱烈な喝采を送っている人たちがみな演奏者の友人かというと、そうでもないし、お義理で拍手をしているようには見えなかった。むしろ心の底から演奏に感動しているようなのだ。

 私は悩んだ。音楽的には確かに不満だった。しかし聴衆が心から楽しんでいるものを頭から否定して良いのかと。そこには外来の一流演奏家による最高の演奏を探究するのとは違った価値観があるような気がしたからからだった。

 もちろん本当に良い音楽を求めること自体を否定しようというのではない。事実私も、これまで素晴しい音楽を常に追い求めてきた。しかし「一流指向」を持たずともクラシック音楽を楽しむことはできるし、それを実際に心から楽しむ人もいるのである。

 アメリカの地方に住んで感じることは、大都市から離れた地域には、もっと質の良い音楽に触れる機会を作ってほしいということである。教会で賛美歌を歌い、西洋音楽を自分たちのものとして受け入れるこの国には、良いものを求める基盤は充分あるはずだ。日本の場合は反対に、外来の一流音楽家ばかり求めていないで、地元に住む可能性のある人たちを、もっと応援していくべきではないか。音楽学生たちによるコンサートに触れながら、そんなことを考えてみた。(音楽批評紙『Breeze』第14号 [1999年11月15日] に掲載)



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