音楽雑記帳(24)



アメリカにおける日本の音楽の受容(新聞掲載版)

『新潟日報』1997年9月1日掲載

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 アメリカのポピュラー音楽は、世界で最も大量に輸出されている音楽だと言われている。実際日本国内においても、新聞やテレビ、ラジオなどを通じてその最新の情報は伝わってくる。

 一方日本の音楽は、日本の商品として最も輸出されていないものだと主張する音楽評論家がいる。残念ながら筆者のようにアメリカに住んでいるとそのことを実感せざるを得ない。特にポピュラー音楽は、最近流行している小室哲哉プロデュースのヒット曲でさえアメリカで聴かれることはほとんどないのだ。CDのマーケットが全く確立されておらず、大都市にある日本の雑貨を扱う店で日本人向けに細々と売られている程度に過ぎない。筆者の住む小さな町にはそのような雑貨店もなく、いま最も多くの日本人に聴かれている音楽を直接知ることは不可能である。

 例外は坂本龍一のようにアメリカのレーベルから発売されるもの。アメリカの主流アーチスト同様、ポップス一般のセクションにCDが並ぶことにより知名度が上がり、最近は日本発売のCDも、アメリカで「輸入盤」を扱う店に並ぶようになった。

 日本のポップス、特に歌の場合、アメリカ人には歌詞が分からないという問題はある。しかしそもそもエキゾチックなものばかりを追いもとめるアメリカ人の日本音楽観が反映されているため、アメリカのコピーのような日本のポップス音楽にも興味が及ばないということもありそうだ。例えば近年の世界音楽を研究しているピーター・エマニュエルは『非西洋のポピュラー音楽』(八八)という著書の序章で、「演歌における節回しを除いて、日本のポピュラー音楽と西洋のポピュラー音楽とは、様式的に見分けがつかない」とさえ断言している。

 そのようなアメリカ人の日本音楽観はクラシックにも当てはまる。例えば日本の伝統楽器を西洋の楽器と混在させたような作品は目立つ存在で、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」は、一九六〇年代の作品であるにもかかわらず、現代日本を代表するオーケストラ作品として揺るがない地位を保ち続けている。また、あからさまに日本の楽器を使わなくとも、「東洋の神秘」を感じさせるものはアメリカ人の好奇心に訴える。例えば佐藤聡明の音楽は、神秘的サウンドとアジア的標題を使うことにより、いわゆるニューエイジと呼ばれるジャンルの聴衆から注目を浴びている。  「音楽は世界共通の言語」などと言われるが、ことアメリカにおける日本音楽の受容を考えると、それも神話の一つのように見えてくる。多様な日本の音楽が、より多くの人に享受されるにはどのようにすればいいのだろうか、改めて考えさせられる。



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