音楽雑記帳(12)



ゲオルグ・ショルティ追悼記事(シカゴ・トリビューン誌)の翻訳・要約



ショルティが84歳で亡くなったとき、彼はフランス南部に 妻と2人の子供と一緒にいた。

10月25日にあらたに改装されたオーケストラ・ホールにて 第1000回目のコンサートが行われることになっていた。

バレンボイム: 「私は友人で同僚でもあるサー・ゲオルグ・ショルティを 失い深い悲しみを感じている。数週間後には、85歳の誕生日 と彼が音楽を通して貢献したことを祝うことになっていたのに。」

ショルティはCSOの音楽監督としての22シーズンの間に、ほと んどたった一人で、この街の海外からのイメージをアル・カポ ネの土地から世界の有数なオーケストラの本拠地へと変えてし まった。

同時にショルティはいつもシカゴに愛されるとともに嫌われるとい う関係を常に持っていた。彼はついに一度も永住地をここにす ることはなかったし、街をしろうという努力もしなかった。彼 の土地感は、ホテルのスウィートルームのあるイーストレイク ショアドライヴのメイフェアレジェントとオーケストラホール とを結ぶミシガン通りから延びる2マイルを超えることはなか た。しかもかれはその間をほとんどおかかえのリムジンの中か ら見ただけだった。

ショルティにとって、合衆国は集中した仕事をするための場所 でありつづけた。仕事が終わったときは、さっさとヨーロッパ に帰ってしまったものだ。

もちろんシカゴ交響楽団は、少なくともフリッツライナーが定 職の音楽監督であった時期以来(1953-1963)、世界一級のオ ーケストラであった。しかしショルティこそがアメリカで3番 目に古いオーケストラを1971年、中西部の田舎のガレージか らヨーロッパの音楽の首都につながる栄光へとつれていってく れたのだった。

そして彼がもっとも長続きした成功を手にしたのはまさしくシ カゴ交響楽団との提携であった。それは1950年代60年代製作 の録音を通してすでに世界中に広まりつつあったものである。

あるニューヨークの評論家はショルティを指揮台で「祈るカマ キリ」と称したが、それは疑いもなく賛辞であった。もっと慈 悲のない音楽家は、彼を「叫びたてるガイコツ」と呼んだ。シ ョルティが音楽を想像するとき、彼は取りつかれた人と化し、 獰猛さとダイナミズムをもってオーケストラに突進したものだ が、それは有名な「ショルティの指ならし」で規則づけられる。 この指ならしは、正確な拍子を示しいるが、この拍子こそ展開 するスコアの詳細をすべてコントロールするしていることを明 確に表わしているのだ。

このスタイルは、すべての人から尊敬された訳ではなかった。 ショルティの音楽作りが極度に客観的で、暖かさと自然さに欠 けるとする批評家や音楽家もいた。しかしオーケストラが彼の 欲するところのすべて(のちには幾らか)を与えることができ たことには疑いがない。

彼を良く知っている人に拠れば、彼が時より指揮台で見せる獰 猛さということについて、この男ショルティは全く違った動物 になることもあったとしている。

ショルティは「とても優しく、とても暖かく実はとても面白い 人間だ」とシカゴ響の長ヘンリー・フォーゲルは言う。

リラックスのために、「ショルティはブリッジ(トランプ遊 びの一種)が好きだった。彼はそれをオーケストラの団員、ス タッフ、事務員の人たちと遊んだ。また彼はテニスと卓球が好 きだった。私たちは卓球をやった。彼は70歳台で私は40台だっ た。彼は僕を徹底的にやっつけてくれたよ。でも僕だって全然 下手じゃない。」とフォーゲルは続けた。

ショルテイの晩年を音楽家として「円熟した」というのは常套句 になった。おそらく彼は音楽をコントロールすることに関心が薄 まり、むしろ音楽にコントロールされるようになったと言う方がよ り有益なのではないだろうか。過度に緊張を与える人で、初期のシカゴ時 代、オーケストラにまさに飛びかかるように見えた興奮しやすい 指揮者は、もっと叙情的な指揮者になっていたのである。超人的 な拍節の感覚と明確なリズム、常にショルティのトレードマーク であった集中は、最後まで存在していた。しかし彼のテンポは少 しリラックスし、音も圧力が減ったのだった。要するにショルテ ィは、さらに面白い指揮者になったのだ。

1968年、ショルティがジャン・マルティノンのあと、翌年CSO を引き継ぐことが発表されたとき、このハンガリー人指揮者は、 「やつら(交響楽団)が俺を必要としているーー俺はあいつら なんか必要じゃないんだけれどね。」と暴言した。

しかし、興味深いことに、ショルティにはシカゴ交響楽団が確か に必要だった。というのもこの才能ある野心に富んだ中央ヨーロ ッパの音楽にとって、アメリカの指揮台を保持することは、望ま しく、かつ必要なキャリアアップのための一段階であったからだ。

それでも依然、ショルティの経歴でもっとも重要な時期はここシ カゴで過ごされている。こんなにハイレベルな音楽を続けること ができたオーケストラはアメリカのどこにもない。回転ドアのご とく音楽監督が次々とかわり続ける我々の時代において、一つの オーケストラの責任を持った22年というのは、長い時間である。

ショルティはシカゴ時代を安定の時としている。それはオーケス トラの世界的名声と、何といってもオーケストラの成長を考えて のことである。

「このオーケストラが今ほど素晴しくなったことはかつて全くな いと思う」とショルティはトリビューン誌との最後のインタビュ ーで発言した。「若手の演奏家はとてもよく演奏するし、若手と 年配の混在はとてもうまくいっている。最初は我々もなかなかう まくいかなかった。ここが故郷だ、これが本当に私のオーケスト ラだとと感ずるまでには4、5年かかりましたよ」

「いま、何百のコンサートを一緒にやり、お互いのことは理解し あっている。心が通い合うことが理想的だ。私たちは他のオーケ ストラほどリハーサルしなくてもいい。少ない時間でもっとでき るんです」

「私にとって最も価値ある時間は、」彼は言う、「本当はリハー サルの時なんです。何かを作るこういう生産的な時間がね。時に はすごく辛いときもありますが、素晴しいときもあります。」

「シカゴ交響楽団は悪いコンサートはしません。よいコンサート か、とてもよいコンサートだけです。とてもよいコンサートも数 多くしましたよ。私が好きなのは、このオーケストラは彼らが嫌 いな客員指揮者とでさえも、絶対に悪い演奏を誰のためにもしな いことです。私が5000マイル離れている時でさえ、彼らが私の 水準を保ち続けていると確信していました。彼らのプロの誇りは 唯一でどこにもないものなのです。」

しかし、一つ疑問が残る。彼が最も喜ぶ賞は、シカゴ交響楽団が、 バレンボイムの影響にも関わらず、依然ショルティのオーケスト ラであることが彼に伝わることではないだろうか。ほとんどの演 奏家はショルティに任命されているのだ。ショルティの音や、演 奏力、趣味は浸透している。確かに、バレンボイムはCSOの方向 と構成分子をいくらか変えてしまった。しかし気動力(エンジン) はショルティが作り上げたままに残っている。

ショルティの業績を集約して、CSOのフォーゲルは、サー・ゲオ ルグの「無上のプロ主義」に驚いたという。「30年以上振った音 楽作品であろうと、彼が数年演奏しなかったならば、彼はでかけ て書き込みのないあたらしいスコアを購入し、一から研究し直す んです。実質的に、他のあらゆる指揮者など、70台に到達した時 は、新しい曲など殆どやらないものです。ショルティは、亡くなる まで、名曲を1つか2つ学び、それらを演奏したのです。」(97.9.7; 98.1.11 uploaded)


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