音楽雑記帳(11)



ルボミル・ゲオルギエフ チェロ・リサイタル
1998年1月7日 フロリダ州立大学 オッパーマン・リサイタル・ホール
クラッシミラ・ジョーダン(ピアノ)



フロリダ州立大学でチェロの教鞭を取っている、ブルガリア出身のゲオルギエフが、あまりアメリカでは知られていない自国のチェロ作品を披露した。前半は無調的書法を基本とした現代風の作品、後半はもう少しリラックスした民謡風の作品であったが、全般に集中力を要するチャレンジングなプログラムであった。

前半では無伴奏チェロのための作品が二つ演奏されたが、それらは2つの対比する要素が曲の要(かなめ)となる作品だった。第1曲目は、ペーター・クリストスコフ(1917年生)による、独奏チェロのための幻想曲(1967)。ほとばしる感情が流れ出る部分と、それに拮抗する部分がドラマを織り成していく作品。第3曲のマリン・ゴレミノフ(1908年生)の独奏チェロのためのソナタでは、特殊奏法を多用した部分と、より因習的部分の対照が音楽を引っぱっていった。

アレキサンダー・レイチェフ(1922年生)のヴァイオリンとオーケストラのための<ソナタ詩>(1956)(チェロとピアノのためのトランスクリプションを使用)は、伝統的な3楽章からなる作品だが、第2楽章、第3楽章は、伴奏が独奏と微妙に絡みあったり、伴奏が次々と新しい楽想を呈示しリードしていく箇所も多くあった。ピアニストのジョーダンはこの大役を見事に成し遂げ、曲の推進力が最後まで持続されていた。

ツヴェタン・ツヴェノフ(1931-1982)のチェロ・ソナタ(1973)(ピアノ伴奏つき)では、テンポの速い部分でのオスティナートと打楽器的奏法の多用が聴きものだった。遅い部分では、微細な音色への探究もみられ、作曲者のイディオマティックな書法に関する確かな知識を感じた。旋律線がうねりながら発展していくロマン派作品とは違い、数々の音楽様式がきっちりと切り込まれて進んでいくという印象を覚えた。

ここまでのゲオルギエフの演奏には、作品に対する強い意気込みがあり、それぞれの作品から縦横に面白さを引き出そうと腐心していたことが充分に感じ取れた。聴き手の方もそれに答えようとしていたようであり、緊密な空間が会場全体を支配していたように思われた。技術的にややこなれない部分も残ったが、特に伴奏付きの作品は、ジョーダンの見事なサポートもあって、手綱をしっかり握った充実した手応えを感じた。しかし聴衆の多くが前半のプログラムで帰ってしまったようなのはどうしてなのだろう。現代的な響きによる緊張が、ここでふっ切れてしまったのだろうか。

休憩後は、前半に比べると、よりリラックスした作品が並んだ。第1曲はパンチョ・ヴラディゲロフの前奏曲で、これはピアノ独奏のための華麗な作品(ラフマニノフ風ともいえるだろうか)。ピアニストのジョーダンは、座ると同時にいきなり曲を開始し、あっという間に聴衆を引き込んでしまうというかけひきの良さは感じられたのだが、細部が荒く、音がたくさん抜けてしまったのが悔やまれた。おそらく頭の中で音はきっちり聞こえている人なので、それをじっくり具体化する過程も大事にするべきだったとおもう。実力のある人だけに、そこまできちんとやって欲しかった。

その後のチェロとピアノのための作品は、<お話し>、<フモレスケ>といった小品が続いた。グリーグ風のロマンスのあるものや、クライスラーばりの洒落た作品など、一息つくことができたが、最後はそれらの作品よりもやや洗練されたロマンティックな作品2曲が並べられ、ブルガリアの優れた音楽作品を少しでも聴かせたいという奏者たちの意気込みが伝わってくるようなクライマックスだった。

一口にブルガリアの音楽といっても、単純に民族的・国民楽派的な音楽を期待することは間違いだと分かった。20世紀西洋音楽も、19世紀から脈々とある古い伝統も、どちらも着実にブルガリアの現在に生き続けていることを実感したコンサートだった。(98.1.10)



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