まずは日本語のラップ。実は日本に一時帰国する際、飛行機のなかで聴いていたので、初めてではなかったが、驚きを新たにした。一部では評判が悪いようだが、私は単純に「面白い」と思った。確かに時々アクセントの不自然なところがあったが、もともと強弱アクセントのない日本語だから、強弱ストレスのコントラストの激しいラップのビートに合わせること自体に、そもそも無理があるのだろう。だから、日本のラップの曲には、ラップでない箇所を挿入しなければならない。私の聴いた<Maicca>という曲には、短い会話体の部分が随所にあった。こうでもしないと、不自然さがなくならないのではないだろうか。韓国にもヒップポップがあったが、やはり無理してる感が否めなかった。全く奇妙なコンビネーションだとさえ感じたのだが、日本のラップも、アメリカ人からはそういうふうに見えるのだろうか。
しかし歌詞の意味を考えると、日本のラップはアメリカのラップそのものそっくりのコピーではない。例えば、ギャングスター・ラップに限らずアメリカのラップには、反社会的・反体制的メッセージの含まれているものや、隠語の含まれているものが多く、それが世間の批判の対象にもなっている。それに対し、日本のラップには、アメリカのものほど強烈なメッセージは織り込まれていない。社会的な不満や人種差別といった問題が音楽として表面化するまでには至っていないのだろう。日本のラップはアメリカのラップ音楽語法こそきちんと踏襲はしているが、歌詞の中のたわいもない恋物語や日常会話に反映されている社会的・思想的背景は、アメリカのものとは大きく食い違うことになったようだ。なお『ニューヨークタイムズ』誌には、ダウンタウンの芸者ガールズが写真入りで登場し、日本に輸出されたラップ文化が紹介されたことがあり、見出しには「No sex please, We are Japanese」と書いてあったと記憶している。
また、曲のタイトルが和製英語になっている歌も、多少は予測できたにせよ、驚きに値した。私がレポートを書いていた頃にヒットしたJoy to the loveという曲のタイトルをアメリカ人に見せたのだが、多くの人から「意味がわかんないね」といわれてしまった(おそらくJoy of loveにすれば分かったのかもしれない)。Lady Generationというのについては、「そうねぇ、おばさんが世間に台頭するのかな」とまで言われてしまった。その他、テレビ神奈川で放送されている音楽番組のタイトル「Music Tomato」は、多くのアメリカ人を微笑ませてくれた。奇妙な言葉のドッキングが驚きをもたらしたようだ。
もっと凄いのに、Body Feel Exitという歌のタイトルがある。冒頭の冠詞がないのは許せるとしても、動詞は三単現の"s"がいる。また、意味的にいって「体が出口を感じる」というのは、日本語でもおかしいし、英語でももちろんおかしい!
日本人がそのように英語を頻繁に使うのは、日本人が英語の意味を理解しているかどうかにはあまり関係がないのだろう。大切なのは、単にその響き、音の良さ。あるいは、中学校や高校で英語をかじった人にとって、英語は一種のコンプレックスになっているのかもしれない。または「英語は国際語」という「言語による植民地化政策」にもみごとに乗せられているということなのだろうか。
ところで、最近アメリカにも、言葉の侵入ということでは、日本に類似した現象が見られるようになった。例えばマイクロソフトのテレビ・コマーシャルでは、外国でコンピュータについて話している人(主に東ヨーロッパやアジア系)が、現地語で話し、画面の下方に字幕(subtitles)が出るというのがあった。いままで聞いたことのない言語の音を耳にすることに魅力を感じさせるということのようだ。
しかしそういうコマーシャルを見ると、アメリカ人も日本人も、良く分からないけれどかっこいい、という存在を持っていることが分かる。やってることなんて、同じなんだよね。