フレデリック・ジェフスキの音楽

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《不屈の民》変奏曲

(1)フレデリック・ジェフスキ(ピアノ) スイスHat Art CD 6066
 
彼の作品は社会思想的な背景が分からないと入り込めないのだという偏見を私は持っていたようだ。まず全曲を聴いてみて、そこから実際 に聴こえてくるものの大切さがあると考えた。特に変奏の中間から後半というのは、ものすごい技巧が聴かれる一方、不思議に自己を遠くから眺めるような冷静 さがあって、そこにあの主題が戻ってきた時に感ずる、ぞくぞくとした感覚というのは、忘れがたい体験になるような気がする(あのミスタッチ?の解釈はどう したら良いのか、私はまだ決めかねているが)。ヴィルトーゾ。確かにヴィルトーゾなんだが、なぜゆえ彼はこういった難しい技巧に走るのか、その意味が何と なく感じられたような気がした。

「思想が社会を変えるという伝統がヨーロッパにあるがアメリカにはない」ということをジェフスキは言っていた。この録音を聴いて思っ たのは、作品の背景にある南米の政治や歴史を知らずとも、なんとなく音そのものから思想へといけるのではないか気持ちだった。つまり、音楽そのものが何か しら抽象的ながらも思索を促すことができるのではないかということなのである。

それにしてもこれは、語法的には実に雑多な変奏曲だ。冒頭のいくつかを聴いただけでは、それはちょっと分からない。私がうまくいかな かったのは、この最初ばかりを聴いて、すぐに飽きてしまっていたからだろう。先日その部分をあえて飛ばして途中から聴くと、違ったものが見えてきた。作品 の聴き方としては間違っているのだろうが、例えば小説だって、話の動き出す箇所を読めば、後から序の部分に帰って読むことがあるのではないか、そういうこ とを私は考えて、自らを甘やかすことにしてみた。推薦盤。

なおこの録音は、ジェフスキ自身による即興的なカデンツァが聴けることにも価値があるようだ。「ジャズ的」という評価も聞いたことが ある。 (01.12.18.)
 

不屈の民変奏曲 オッペンス盤 (2)アースラ・オッペンス(ピアノ) 米Vanguard VSD 71248(LP)(現在はCDにもなっています)

同曲の献呈者による演奏。一聴した感じ、作曲者のピアノよりも、しっとりとした感じ。残響がより長いことなども、要因かもしれない。お そらくこの作品の難しさは、作曲者がピアニストであり、作風が即興的であるということだろう。つまり楽譜を起こしたようにこの曲を演奏すると、妙に客観的 な音の提示になるのではないかということだ。オッペンスの演奏はこの点、特に中間辺りまではうまくいっているように思う。しかし後半の緊迫感、「煮詰ま り」感については、自演の方がより強く迫ってくるように感じられた。秀演。(01.12.18.) 

(3)マルク=アンドレ・アムラン(ピアノ)英Hyperion CDA67077

同時収録:Down by the Riverside; "Winnsboro Cotton Mill Blues" from Four North American Ballads.

ヴィルトーゾ・ピアニストとして名高いアムランによるジェフスキ(カデンツァ入り)。このピアニストが好きでこの曲に触れた人も、あ るいは多いのかもしれない。打鍵の確かさに関しては、おそらくこれまでで最高のものだろう。また、最初の数変奏は、この演奏が一番面白く聴けたような気が する。後半のスケールの大きさも見事。

しかし筆者個人の好みとしては、やはり自演盤に行ってしまう。アムランの見事なピアニズムは申し分ないのだが、クリーンな感じが私自身 にはしっくりこないのと、何かしら音楽が客体化されている印象を持ってしまうからなのだろう(カデンツァを聴きくらべるのも面白いかもしれない)。こうい う感情を述べるのに「精神性」という言葉はどうも使いたくないのだが、それにしても自演盤からくる、不思議な魂の揺さぶりのようなものに、筆者はどうも惹 かれてしまう。「政治」という言葉にそれが容易に収斂(しゅうれん)されうるのだろうか?

それでも、このアムランの演奏を聴いていたら、「この作品もピアノ作品の古典となりつつあるのだろうか」と思わされたし、この録音を良 しとする人がいても、全く不思議ではない。オスティナートを多用したミニマル風の作品、《ウィンズボロー・コットン・ミル・ブルース》も面白い。 (01.12.28.)


付和雷同者たち(パニュルジュの羊)ブラックアース打楽器グループ 米Opus One 20(LP)
 
ジェフスキ Opus 1 LP 65の音符でできた旋律の一つ一つの音の上に番号がふってあり、それを12、123、1234…というよ うに演奏していく。最後までいったら、今度は2から65、3から65、4から65という風に、音符を減らしていく。演奏者の数は不特定だが、原則的にユニ ゾン(オクターヴだぶり可)で旋律を演奏する。途中で「落ちる」人がいても、無理に合わせようとせず、とにかく規則になるべく忠実に沿って演奏を続けてい く。

このレコードに収録されているのは、おそらく全部をユニゾンで間違いなく演奏できるプロの演奏家だろう。しかし、あえて演奏を途中でや める人がでたり、わざと落ちる人がいるようだ。音としては、ちょっとしたミニマル音楽のようになって、これはこれで面白い。ビブラフォン、グロッケン、マ リンバ、木琴と多様な打楽器が使われており(音が持続せずに減衰するものばかりだが)、ワイルドな響きだ。テンポも速く、独特のスイング感もある。

コジマ録音のLPには、ピアノを10台だったかを使って演奏したものがあったが、あちらの方は、誰かが落ちてズレる場面がなく、すっき り通して演奏したという感じだったので、遊びの展開としては、このLPの方が楽しめると思った。もちろん本当に落っこちているのとは、おそらく違うと思う のだが。(2000.1.9、2001.9.10.訂正)

 
(2000.5.18.追記)コジマ録音のLP(写真)ですが、ケージの「冬の音楽」はピアノ20台を使った演奏なのですが、B面の 「付和雷同者たち(パニュルジュの羊)」は「山下洋輔以下8台」のピアノしか使っていないそうです。「クラシック招き猫」の投稿にてご指摘くださった鈴木 真樹さん、ありがとうございます。

4つの小品 ほか 米Vanguard VA 25001(LP)

政治的メッセージを込めた作品が有名なジェフスキだが、そういった政治的な関連性が(タイトルやプログラム・ノートといっ た手段で、あるいは政治的な歌を曲に引用することによって)明確にされていないと、捉えにくいのも確か。このLPに収録された<四つの小品>は<「不屈の 民」変奏曲>の2年後に書かれているのだが、明確なプログラムはない。音楽的には、無調音楽の中に(おそらく南米由来の)民俗音楽的な旋律がちらっと見え 隠れするといった感じだ(クリスチャン・ウォルフの解説によると、特定の民謡やポピュラー音楽は使われていないとのこと)。自らピアニストとしての技巧を 生かし、旋律よりはオスティナート音型を多用し、短い動機が次々と現われては消える。即興性に富んでいるが、一貫性に乏しく、ある特定の楽想が縦横に発展 することもない。

全体がソナタのようになっていると、ウォルフは解説しているが、何かしら4つの曲を貫くメッセージ(あるいは個々の小品を他のものと明確に分ける強 いキャラクター)があるのならともかく、どこをとってもジェフスキの直観から紡ぎ出された楽想をありのままに提示したもの、という印象をもった(それが 全体として 「一つ」なのだとする見方もできなくはないが)。実際レコードでは、曲間の空白時間が短いため、どこで次の小品になったのか、分からないほどだ。

同時収録は、<北アメリカの4つのバラード>から、バラード第3番(1978年)<<君はどちらの側についているのか>> である。こちらはポール・ジェイコブスのために書かれた抵抗歌に基づいた「自由な変奏曲」(解説書)とある。やはり多様なアイディアがちりばめられてお り、中間部では、オスティナート音型を利用し、独特の緊張感が生み出されている。

このLPを聴く限り、ジェフスキは本質的にアイディアをそのまま音符にして書き込んでいく、即興的な作曲家のように思われる。楽譜に固定すること によって、普通に即興演奏するよりもずっと構築性が増すのかどうかについては、疑問に思う。(99.11.28.)


歌と踊り スペクラム・ムシケ Nonesuch H-71366 (LP)

ダブル・ベース・ソロはピチカート奏法のみ。それにビブラフォンを加えると、不思議にジャズのように響く。しかし8分の21拍子という奇妙な拍子を 使うことによってモダンであることを醸し出そうとしているのだろうか。しかし聴いた感じは、きっちりと記譜されたジャズという印象。フルートやクラリネッ トが入っているところがクラシックの名残か。(1999.5.1.)


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