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2005年10月31日
JASPM北陸など
昨日石川県女性会館にて日本ポピュラー音楽学会の北陸支部研究例会があり、ここ1年くらい取り組んできたディズニー映画音楽に関する問題のうち、白黒時代のミッキーマウスに特化した調査について発表させていただいた。今回は三井先生や常連の方々の他に「本部」から山田晴通先生や東谷護先生もいらっしゃった。映像を使ったため発表時間が長くなってしまったのであるが、この時代の音楽にはさまざまな既成曲が使われていること、そして実際どういう曲が使われているのかをリストアップしたものに強い関心を持たれたようだった。後者に関心を持たれた方は公立学校にお勤めだそうで、最近周囲からは音楽の授業は「ディズニーでもやればいいんじゃない?」と言われるのだそうである。クラシックの名曲もたくさん登場するので、そういうレパートリーに親しませるためのリストにも使えるということか。
ただ三井先生がおっしゃる通り、「受け手」論も将来的に行う必要がある、あるいは行う意義があるというのは賛成である。特にディズニーに関しては「家族が安心して観られる映画」というイメージがあり、この時の「家族」とは? 年齢・性別・人種 etc. に関して考えてみるのは面白いことだと思う。一方でディズニーはracial streotypesに関していろいろと物議を醸し出している存在でもあるし、そういった問題もいずれ調査してみたいところではある。
研究例会の後、駅前で飲食。そして松本にいらっしゃるという山田先生には富山まで送っていただき、誠に恐縮であった。車内ではオーストラリアに関する興味深い話をたくさんお伺いし、近年アジアとしてのアイデンティティを強く打ち出しているこの国のことについて、俄然関心が高まった。また東谷先生からは励ましのお言葉をいただき、感謝申し上げる次第である(おっしゃる通り、博論を日本語で出版したいと切に願う)。
さて、これからは『レコ芸』、そして無署名原稿が始まる。まだまだ忙しい。
投稿者 cs3daime : 21:11 | コメント (0)
2005年10月27日
音楽の記憶(私と『ガンダム』の場合)
一度何かにのめり込むというのは怖いものだ。実はお盆の終わりに放送された『ガンダム』劇場版3部作を観てからというもの、なぜかガンダム(世間では「ファースト・ガンダム」などと言うそうだ)が「マイブーム」になってしまい、映画とテレビのOSTまで入手してしまったのである。
ところが不思議なのは、映画版のOSTには、いま一つ入り込めず「ああ、こんな音楽だったな」という程度で、聴き流した程度だったのに対し、テレビ版OSTを聴くやいなや「コレこそガンダムの音楽だ」と胸が熱くなるのである。映画版の音楽がテレビ版を下敷きにしており、そのうちのいくつかはアレンジ(あるいは即興的楽句)や録音が違うという程度のものであるのに。
そう、なぜかテレビ版にくるビンビンとした感覚が映画版にはない。もちろんテレビ版にしか使われていない音楽もあり、最終回のオーラスで使われていた《宇宙 (そら) よ》 (アンクルンが入っているのは気が付かなかった) という楽曲などに感ずる底知れぬ感動は映画版のポップ・ソングでは全く伝わってこなかったのである。
以前インターネット上の掲示板において、ガンダム劇場版の特別版DVDにファンの間から強い批判が浴びせられるのを見たことがある。何でもDVDの音声は新しく録り直したらしく、特に《哀 戦士》の使用箇所の違いが我慢ならないのだという。私はこの映画はおそらく観ていないはずで(実家に《砂の十字架》のドーナツ盤があり、妹によると私が購入したそうだが…?)、先日の放送でようやくそういう違いのあることを知ったばかり。また歌の登場に関しては、むしろ違和感を感じていた方でもある。テレビ版には当該の挿入歌がなかったからだろう。第3作目の『宇宙へ』という映画のエンディングの《めぐりあい》も同じで、テレビ最終回で使われた楽曲《宇宙よ》でないのは確かだからである。
当時映画版の音声を録音し、繰り返して聴いていたファンも多くいたという。実は私もテレビ版の最終回は録音して何度も聴いていたという経緯があり、「『ガンダム』の最後はこういう音楽だ」という記憶が染み付いているに違いない。
しかしまあ、テレビ版の本体の最初(永井さんのナレーション)に流れる《長い眠り》など、ホルンとトロンボーンの平行進行によるコラールの後の、ヴァイオリンの上行パッセージが映画ではオクターブを変えて2回演奏されるというだけでも、すでに違いとして感じていたのであろうか。人間の記憶というのは不思議である。このテレビ版のトラックの後半は映画版では別のトラック(紅の起動兵器 M-14)になっていて、テレビ版のちょっとたどだどしいティンパニーは改善され、テンポがアップし、スリル感も高まっているハズなのに、映画版の方ではなくテレビ版の方にピンとくる。
映画版は全般的にテンポが速くなっているものが多い。例えば半音進行を多用したベースで始まる無調風の冒頭が印象的な《窮地に立つガンダム》(TV)も《ガンダム起動 M-4》(映画)ではずっと速くなっている。テレビ版でもいつの間にかテンポが上がってきているが (^_^;; 冒頭のアーティキュレーションが違うのは聴き比べて始めて分かった。それにいろんな要素が入っているのは映画の方。それでも記憶はテレビ版の方なんだなあ。
不思議だ。テレビ版を観ていたのは小学生の私なのに。今から思うと、映像に見る戦闘のスリル感と、ちょっとのんびりとした感覚の音楽との組み合わせに、当時は大きなインパクトを感じていたのかもしれない?
2つの気になるBGMを両バージョンともiTuneに入れて聴き比べる。う~ん、な~るほど~、映画版の魅力もあるなあ。テレビ版のをもう一歩進めたという感じもなくはないなあ。純音楽的にはメリットもあるということか。う~ん、よく分からない。
ところで先日『アニメック』を眺めていたら、『ガンダム』の監督は『ヤマト』と『コナン』を超えるというのが目標だったそうだ。でも『コナン』は超えられなかったとも言っている (^_^;; →出典:富野喜幸、「機動戦士ガンダムを終えて」『アニメック』第10号(1980年4月)、82ページ。『ガンダム大事典』(『アニメック』第16号、1981年3月)、79ページに再録。
投稿者 cs3daime : 15:59 | コメント (0)
2005年10月25日
買い物記録(アメリカ音楽以外)
日本音楽学会@明治学院大の前後に買いました(東京にお住まいの方々、今回は時間がなくてお会いする時間が取れませんでした。ご了承あれ)。
古賀書店
井上頼豊『ショスタコーヴィチ』(古本)、ミヨー/別宮訳『ダリウスミヨー:幸福だった一生』(古本)
三省堂(レコード社)
ペルシャの市場にて(楽しいケテルビーの世界)(ロジャース/ロイヤル・フィル)(中古)
ササキレコード
Reflexe:
Fr�he Englische Orgelmusik, Fr�he Kammermusik in Italien um 1600, Von Venedig nach Wien, Vox Humana (中古。各700円だったので、つい…)、ショスタコ自演集(EMI、中古)
お茶の水ディスクユニオン
ゲイ&ペープシュ バラッド・オペラ「乞食オペラ」(なぜか中古盤は買わず)
タワー新宿
Eranco Evangelisti (Edition RZ), Cornelius Cardew: Four Principles on Ireland and Other Pieces (Ampersand), Siegfried Palm: Intercomunicazione (DG), Khachaturian: Sym. 2, Piano Concerto, Violin Concerto, Masquarade Suite (Double Decca), John Dunstable: Motets (The Hilliard Ens., Virgin Veritas)
ペンデレツキ:ピッツバーグ序曲ほか(DG-Tower Vintage Collection)。
HMV渋谷
ラモー:優雅なインドの国々(お店の人に探してもらいました。ありがとうございます!)、Shostakovich: 24 Preludes and Fugues, Op. 87(Nikolayeva, Hyperion)
タワー渋谷
禁断の音楽/流浪する作曲家たち(DVD)、Shostakovich: Lady Macbeth of Mtsensk (Anissiomov, EMI DVD)、ウルマン《アトランティスの皇帝》(ウチにアメリカ盤があった…)、ハース《にせ医者》、ツェムリンスキー《フィレンツェの悲劇》(以上Decca まあ、国内盤だから、ここで買う必要もなかったんですが…)。
投稿者 cs3daime : 22:02 | コメント (4)
2005年10月24日
「アメリカ音楽」の誕生:社会・文化の変容の中で
奥田恵二著、河出書房新社、2005年。
先住民の音楽やアフリカ系音楽、ポピュラー音楽を含め、幅広くアメリカ音楽の歴史を捉える新刊書。新しい情報も加えられており、文章の上手さも1970年の著書を彷佛とさせる(いや、読みやすさでは、こちらの方が上だろう)。
全般的には大変素晴らしい歴史的概観だと思うけれど(ポピュラー音楽については、私の知識不足ゆえ分からない部分も多いが)、20世紀調性音楽史に関しては比重が軽くなってしまい、アイヴズ(素晴らしい論考!!!、今の私にはここまでアイヴズに入れ込んだpassionateな文章を書く能力はない。あ、アイヴズは「調性音楽史」に入らない???)とコープランドがクローズアップされている一方、ハリスやシューマンやバーバーやメノッティの扱いが寂しくなってしまったことが残念(最近Naxosからたくさん出ているので、特に)。実験音楽の流れが1970年の本よりもクローズアップされているのは、全体のパースペクティブを考えれば当然と言えるのかもしれないけれど(Gilbert Chaseが版を重ねていく時の変化を思い出すけれど、それでも扱いは小さい)、例えばケージの扱いには疑問を持ってしまうし(バビットと同列に扱うのはどうだろう…少なくとも私にはケージの音楽が「袋小路に突き当た」 (p. 287) っているようには思えないのである)、その後の、ミニマリズムを含めた調性音楽復活への動きについての考え方には賛同しかねる点もある。(ケージに見出しはなく、クラムに見出しがあること--編集者の判断かもしれないが--、コリリアーノらの調性音楽について、私は手放しに賛美することができないことなど)。
形式的な問題ということであれば、やはり引用文献の明示の無いのが極めて残念(「ある資料」「説」という言葉が、どうも気になってしまう)。特にハドソン・リヴァー派、ナイアガラの滝の下り (p. 142) は、私のフロリダ時代の先生が最新の研究成果として学会で発表していたもので、「主要参考文献」に、せめて書籍の形になったものを加えて欲しかった。奥田さんのオリジナルな論考を明らかにする上でも、やはり注は必要だったと思う。
また、日本の読者はアメリカのクラシック音楽(特にゴチョーク以前のもの)については馴染みがないので、ディスコグラフィーがあるとありがたかったと思う(実は前書でも宗教音楽の部分にはなかなか入り込めなかった)。
もう少し難しいテーマには、奥田さんの考える「アメリカらしさ」とは何かという問題がある。例えば19世紀末までのアメリカのクラシック音楽を「アメリカ的でない」と切り捨てるのは容易である(私もアメリカに行くまではそれで納得していた)。しかし、それではアメリカにおけるヨーロッパ的なるものの存在はどうなるのかという問題が残る。これは私がアメリカで日本音楽の勉強をした時、伊福部昭の作品が「日本的でない」と一蹴された時からの疑問なのかもしれない。大きなテーマであり、もちろん私がすぐに答えをだせるとは思っていない。
以上の問題点を私は感じたが、1970年に音楽之友社から出版された『アメリカの音楽 -植民時代から現代まで-』が絶版であるし、この本の出版には大きな意義があると思う。心から歓迎の意と敬意を表したい?
アイヴズの部分を興奮して読み通しておきながら、もう一度読み返すという野暮なことをやってしまう(我ながら嫌な性格だと思う)。「彼こそは、アメリカ音楽史上初めて、自分の思想的信条を音楽作品に反映させた作曲家だった」(p. 237)という部分、さて、こういう書き方は良いのだろうか、と思ってしまう。私がアイヴズの作品を聴いた時、はたしてそこまで感じられたかどうか。また、作曲家の思想的信条が反映されていない音楽というのは、どういうものだろうか、という疑問。ヨーロッパ的作曲法で書いていた人間も、ヨーロッパの音楽語法が良かれという「思想的信条」を持っていたのではなかったか(あるいは少なくともアメリカ的(?)「思想的信条」を持つ必要がないような社会的文脈に置かれていたのではないか)、という疑問。あるいは例えばヨーロッパ的には「粗野」でしかないであろうビリングスのフューギング・テューンがイギリスからの独立精神を鼓舞した経緯はどう考えればいいのか、など。
その他には、「生活と哲学(中略)の融合」(p. 232) をするため、アイヴズは音楽を書いていたのだろうか、という疑問(「求道者」ではあるとは思うし、音楽作品全体からはそういった、後のケージにつながる思想を見る事は確かに可能であり妥当だと思うけれど)、「不協和音に (中略) に立ち向かう精神」は「非感傷的なロマン主義」なのか、あるいはそれを世紀末的な「忘我と耽搦のロマン主義」(ともにp. 232) と比較してアイヴズの(美学的?)独自性と考えることができるのか、という疑問(音楽様式の新しさと古い「精神」の自然な同居?、アイヴズが世紀末ロマン主義にどれだけ触れていたのか--ワーグナーを世紀末芸術に含めていいものなのか?)、考えさせられる(ああ、「表面的批判を行う」のがいかに簡単なことか…どうぞお許しあれ)。
やっぱり「アメリカらしさ」の問題に戻ってしまうのだろうか? アイヴズがオリジナルであることに疑問はほとんどないのだけれども。もっとも何が「アメリカらしさ」なのかはアメリカ人も明確に答えを出せていないのである。とにかく記述してみること、か。音楽は文化活動の一環、であれば、人間を知ることから始まる? ではアメリカ人とは、に行き着くとする。法律上、アメリカに生まれた人はすべてアメリカ人。であれば、アメリカ音楽の全貌を掴む事は、不可能に近い???
やっぱり、無責任に物事を言うのは簡単だなあ。