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2006年2月26日
[Tape/DVD] マゼールのブラームス/ムツェンスクのマクベス夫人
ブラームス 交響曲第1番 ロリン・マゼール指揮ウイーン・フィル、1985.3.3. ウイーン楽友協会大ホール、NHK-FM エアチェック、1985年8月27日放送
古い120分ノーマルテープにエアチェックした演奏です。さすがに冒頭はテープの傷みを感じましたが、すぐに気にならなくなりました。全体に重厚な音のするゴージャスな演奏ですが、流れが停滞することなく、ほどよい手綱さばきで聴かせます。過度の感情移入というのもありませんが、冷淡では全くありません。そして楽譜の楽想に合わせて柔らかさと堅さを自由に扱うことができるのはこの指揮者の強みなのでしょうか。
おそらくマゼールの解釈は好みが分かれると思いますが、ウイーン・フィルというオーケストラの機能性もじゅうぶん発揮した力演だと思います。演奏時間、約47分。
Shostakovich. Lady Macbeth of Mtsensk. Secunde, Ventris, etc.; The Gran Theatre del Liceu; Alexander Anissimov, conductor. EMI Classics 5 99730 9 (2 DVDs)
さて、ようやくショスタコーヴィチの歌劇《ムツェンスクのマクベス夫人》を観おわりました。都合何度に分けて鑑賞したやら。さっそく井上頼豊の『ショスタコーヴィッチ』 (音楽之友社、1957年) に掲載された、いわゆる「『プラウダ』批判」の日本語訳を読んでみました。無教養な私はいま一つ、この「形式主義」という意味が解せないのですけれど、しかしまあ、舞台上で繰り広げられるあからさまな男女の姿というのは、いわゆるモラリストには我慢ならないといったところなのかもしれませんね。ブルジョワジー (!) にそれがウケたということ、ショスタコーヴィチが見逃した民衆 (人民?) の求めているもの、そういったものをこの記事を書いた人がどれだけ分かっていて現状を述べているのか、私には分かりません。ただここに書かれたことが大きな影響力を持っていたという事実は社会的・政治的には明白であり、だからこそ、「公式なリアリズム表現」を問うということになったのでしょう。もちろん舞台に繰り広げられた民衆の姿は「リアル」でないと考えられた、ということもあったと思います。
「『プラウダ』批判」のような言論はおそらく、音楽を積極的に統治の道具として使うというよりは、「あるべき形に当てはまらないものは排除すべし」というネガティヴな刈り込み作業であり、結果的に、より「あるべき形」=より「リアルなもの」になるのでしょうか。
おそらく舞台装置や歌詞のインパクトも大きな意味があったのでしょうね。音楽の語法と、その背景にある社会的背景について、音のみから思いを巡らせるには、それなりに音楽に通じてないといけない。しかし歌詞やパントマイムや舞台セットや物語というのは極めて現代的であり、しかも自国を舞台としているため分かりやすい。結局は音楽に対する攻撃は音楽外の要素から音楽プロパーに向かっていったんではないかと推測してしまうのですが、本当のところはどうなんでしょうね?
あとこのDVDを観ながら考えていたのは、20世紀オペラをオペラ・ハウスで上演するっていうのは本当にスゴいなあということでしょうか。だって聴衆の方はオペラ・ハウスに行くといって、きちんとした身なりをしているのに、舞台上に登場するのは、そういったブルジョワ (!) な世界とは無縁であるかのように描かれた人たちなのですから。モンテヴェルディやラモーの時代から比べると、随分と変わったものです。まあ、オペラ・ハウスを破壊 (@ブーレーズ) しなくてもいいのではないかと私は思いました。
#あるいはオペラ・ハウスに来る人がラフになれば、もっと自然に感じられるのかな?
なおDVDはリージョン・フリー、NTSCでした。日本語解説なし (英語字幕あり) 。PDFファイルがDVD-ROMに入っているそうですが、私は見ておりません。
投稿者 amekura101 : 2006年2月26日 15:24