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2005年8月29日

楽想表現記述の難しさ

富山で続いているベートーヴェン 弦楽四重奏チクルスも9月14日で幕が下りることになるが、そのための解説をいま考案中である。最終回の演目はOp. 18の6、op. 59(ラズモフスキー)の2、Op. 130(大フーガではなくて、改めてかかれた第4楽章を演奏)という組み合わせ。執筆に際してはOp. 130が第4回公演で演奏されており、その分の調査が楽になっている。

今日は《ラズモフスキー》第2番を楽譜を眺めながら聴き、メモをとったりした。初めはズスケ四重奏団、2回目はジュリアードSQ(スタジオ録音、英Sony Classical SB8K 87889)で。

この2つが、かなり異なる性格の演奏を収録したものであることは、ファンの間では自明なことなのかもしれない。例えばズスケで聴いた時には、「内省的」「ブラームスを思わせる」という印象をメモしてある。音友の『名曲解説ライブラリー』やKermanの研究書にもそのような内容のことが記されている。ところがジュリアードSQのを聴くと、もっとシンフォニックで迫力さえある。「内省的」というには激しいし、ブラームスを直接感じ取ることが難しくなっていた(音色の問題もあるのだろう)。

しかし、こういう異なる演奏スタイルによる同じ作品を聴くと、解説にどういう風に書けばいいのか、分からなくなるところがある。実は以前書いた解説でも、自分の聴いたCDの演奏と実演のイメージがまるで違ったことがあった。例えばOp. 127の冒頭。私は弦楽合奏による華やかなファンファーレを感じ取ったのだが、クァドリフォーリオの実演はもっとじっくり和音を噛み締めるようなテンポで演奏されており、ファンファーレとするには遅過ぎるということがあった。もちろん私がいくつかの録音にたよって書いていることが問題な訳だけれども、楽譜にあるMaestosoから一体どういった楽想を考えるべきなのかというのは、案外難しいものだと悟った。

西洋音楽の楽譜は音を伝える記号としては極めて不完全だと言われているけれど、だからこそ、多彩な解釈が可能であるのだともいえる。言葉は具体的だからこそ、その多彩さを変に限定してしまうのかもしれない。

投稿者 amekura101 : 2005年8月29日 19:48

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