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2005年10月24日
「アメリカ音楽」の誕生:社会・文化の変容の中で
奥田恵二著、河出書房新社、2005年。
先住民の音楽やアフリカ系音楽、ポピュラー音楽を含め、幅広くアメリカ音楽の歴史を捉える新刊書。新しい情報も加えられており、文章の上手さも1970年の著書を彷佛とさせる(いや、読みやすさでは、こちらの方が上だろう)。
全般的には大変素晴らしい歴史的概観だと思うけれど(ポピュラー音楽については、私の知識不足ゆえ分からない部分も多いが)、20世紀調性音楽史に関しては比重が軽くなってしまい、アイヴズ(素晴らしい論考!!!、今の私にはここまでアイヴズに入れ込んだpassionateな文章を書く能力はない。あ、アイヴズは「調性音楽史」に入らない???)とコープランドがクローズアップされている一方、ハリスやシューマンやバーバーやメノッティの扱いが寂しくなってしまったことが残念(最近Naxosからたくさん出ているので、特に)。実験音楽の流れが1970年の本よりもクローズアップされているのは、全体のパースペクティブを考えれば当然と言えるのかもしれないけれど(Gilbert Chaseが版を重ねていく時の変化を思い出すけれど、それでも扱いは小さい)、例えばケージの扱いには疑問を持ってしまうし(バビットと同列に扱うのはどうだろう…少なくとも私にはケージの音楽が「袋小路に突き当た」 (p. 287) っているようには思えないのである)、その後の、ミニマリズムを含めた調性音楽復活への動きについての考え方には賛同しかねる点もある。(ケージに見出しはなく、クラムに見出しがあること--編集者の判断かもしれないが--、コリリアーノらの調性音楽について、私は手放しに賛美することができないことなど)。
形式的な問題ということであれば、やはり引用文献の明示の無いのが極めて残念(「ある資料」「説」という言葉が、どうも気になってしまう)。特にハドソン・リヴァー派、ナイアガラの滝の下り (p. 142) は、私のフロリダ時代の先生が最新の研究成果として学会で発表していたもので、「主要参考文献」に、せめて書籍の形になったものを加えて欲しかった。奥田さんのオリジナルな論考を明らかにする上でも、やはり注は必要だったと思う。
また、日本の読者はアメリカのクラシック音楽(特にゴチョーク以前のもの)については馴染みがないので、ディスコグラフィーがあるとありがたかったと思う(実は前書でも宗教音楽の部分にはなかなか入り込めなかった)。
もう少し難しいテーマには、奥田さんの考える「アメリカらしさ」とは何かという問題がある。例えば19世紀末までのアメリカのクラシック音楽を「アメリカ的でない」と切り捨てるのは容易である(私もアメリカに行くまではそれで納得していた)。しかし、それではアメリカにおけるヨーロッパ的なるものの存在はどうなるのかという問題が残る。これは私がアメリカで日本音楽の勉強をした時、伊福部昭の作品が「日本的でない」と一蹴された時からの疑問なのかもしれない。大きなテーマであり、もちろん私がすぐに答えをだせるとは思っていない。
以上の問題点を私は感じたが、1970年に音楽之友社から出版された『アメリカの音楽 -植民時代から現代まで-』が絶版であるし、この本の出版には大きな意義があると思う。心から歓迎の意と敬意を表したい?
アイヴズの部分を興奮して読み通しておきながら、もう一度読み返すという野暮なことをやってしまう(我ながら嫌な性格だと思う)。「彼こそは、アメリカ音楽史上初めて、自分の思想的信条を音楽作品に反映させた作曲家だった」(p. 237)という部分、さて、こういう書き方は良いのだろうか、と思ってしまう。私がアイヴズの作品を聴いた時、はたしてそこまで感じられたかどうか。また、作曲家の思想的信条が反映されていない音楽というのは、どういうものだろうか、という疑問。ヨーロッパ的作曲法で書いていた人間も、ヨーロッパの音楽語法が良かれという「思想的信条」を持っていたのではなかったか(あるいは少なくともアメリカ的(?)「思想的信条」を持つ必要がないような社会的文脈に置かれていたのではないか)、という疑問。あるいは例えばヨーロッパ的には「粗野」でしかないであろうビリングスのフューギング・テューンがイギリスからの独立精神を鼓舞した経緯はどう考えればいいのか、など。
その他には、「生活と哲学(中略)の融合」(p. 232) をするため、アイヴズは音楽を書いていたのだろうか、という疑問(「求道者」ではあるとは思うし、音楽作品全体からはそういった、後のケージにつながる思想を見る事は確かに可能であり妥当だと思うけれど)、「不協和音に (中略) に立ち向かう精神」は「非感傷的なロマン主義」なのか、あるいはそれを世紀末的な「忘我と耽搦のロマン主義」(ともにp. 232) と比較してアイヴズの(美学的?)独自性と考えることができるのか、という疑問(音楽様式の新しさと古い「精神」の自然な同居?、アイヴズが世紀末ロマン主義にどれだけ触れていたのか--ワーグナーを世紀末芸術に含めていいものなのか?)、考えさせられる(ああ、「表面的批判を行う」のがいかに簡単なことか…どうぞお許しあれ)。
やっぱり「アメリカらしさ」の問題に戻ってしまうのだろうか? アイヴズがオリジナルであることに疑問はほとんどないのだけれども。もっとも何が「アメリカらしさ」なのかはアメリカ人も明確に答えを出せていないのである。とにかく記述してみること、か。音楽は文化活動の一環、であれば、人間を知ることから始まる? ではアメリカ人とは、に行き着くとする。法律上、アメリカに生まれた人はすべてアメリカ人。であれば、アメリカ音楽の全貌を掴む事は、不可能に近い???
やっぱり、無責任に物事を言うのは簡単だなあ。
投稿者 amekura101 : 2005年10月24日 18:16