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2005年12月11日

カーター、カウエルCDを聴きながらの雑感

エリオット・カーター 室内楽作品集 Nouvel Ensemble Moderne; Lorraine Vaillancourt, conductor. カナダATMA Classique ACD2 2280

音楽とはすなわち空気の振動であるという言い方を耳にしたことがある。では音と音楽を分けるのは何か、というところでいつも踏み止まってしまう。モダニズムの作曲家が「音は何を表現するのか」ではなく、音の運動、音程やリズム、ダイナミックスといった音を分類・支配するパラメーターに注目していることは確かだが、この「運動」というものは、そのまま「空気の振動」ではないように思えてくる。

「ある音楽作品=空気の振動」というところに何かしら抵抗を感ずるからドラマや「音の構築」に走る、あるいは反対に「音=空気の振動」の方向へと積極的に近付こうとする。こと20世紀はこの2つのどちらかに進もうとしてきたのではないか。

そういった行動が、もちろん音楽外的な「意味」を求める必要はない。しかし、音の振動と人間が、何らかの形で対峙していることは確かであり、それにたいして行動を起こす度に芸術的な?意思決定をしているのではないだろうか。

ヘンリー・カウエル 器楽、室内楽、声楽曲集 第1集  ジョエル・サックス、シェリル・セルツァー指揮Continuum 香港Naxos 8.559192

実験的精神はどのように音として具現化されるのだろうか。確かにトーン・クラスターとカウエルが名付けた、必然的に不協和的になる音はある。奏法も目新しい。不思議なのは、そのクラスターの上に、何とも親しみやすい民謡風の旋律が乗っていること。

…と以前は思っていたのだが、そもそもそういう風に不思議に思うこと自体が、いわゆる現代音楽・前衛音楽の語法を知る後付けの発想なのかもしれない。もともとカウエルにとっては、過去も未来も、洋の東西も自然に(安易に?)共存し得る、あるいは一つの世界に平和に生きるということで良かったのかもしれない。つまり、やれここに前衛的な語法、やれここに民謡風な音楽、と分けて不思議に思うこと自体モダニズムの罠に囚われているのではなかろうか、と思うようにもなってきた。

おそらく19世紀的なものを選別し、できるだけそれらから遠ざかろうとするならば、19世紀的なものを見極めることが第一、現代的と考えられるものを選別することがもう一つ。でも、いつも間にか、そういう発想でずっと来ているというのは、つまりが現代音楽を愛好してしまう者であれば、誰しもが取り憑かれてしまうものなのだろうか。先日レビューのために聴いた後期作品と合わせて、考えさせられる問題だ。

投稿者 amekura101 : 2005年12月11日 21:32

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